ふたりの冬

 かん、かん、と鳴る戸の響き。
 地も水も氷り果てて、口を閉ざした自然の静けさに、忽然高く鳴った。這入はいって来たのは魔理沙だった。氷った泥を踏んで来たと思われる汚れた靴に、降りかかった雪の白さばかりがあちこちに目立つ黒い服。被った帽子のキラキラと銀色に輝くのは、氷片こおりがかかっているのだった。
 いつもの溌剌とした挨拶はなく「邪魔するぜ」の声はどこか鈍い。戸を閉めると、雪の匂いが嗅がれるほどに、冷たい風がさっと滑り込んだ。
「おつかれみたいね」
 アリスは針をいて、元旦の騒ぎ以来になる友達の顔を見た。魔理沙はどこか俯きがちに、湯から上がったばかりのようなぽっと赤い顔をして、憔悴しきった様子で数歩を歩く。と、もう身を支える力も残っていないというように、暖炉の前に据えた長椅子の上にどっと倒れ、片腕を床の方へだらりと垂れた。
 長椅子の軋む音は長く尾を引いた。部屋はまた静かになった。呼吸の音だけがふたつになっている。
「村の子供たちと雪合戦」
 何心なくアリスは言った。魔理沙はぎくりとして、微かに帽子の先を揺らした。暖炉がぱちりと鳴る。焔が少し小さくなる。
「それとも冬菜でも取りに行ったとか」
「いいや、雪合戦で当りだぜ」
 と魔理沙は答えた。本当に疲れた、掠れた声だった。息を切らし声を枯らして子供と雪玉を投げあう姿が目に浮ぶ。アリスはわざと小さく笑って見せた。魔理沙は知らないふりをして、顔を長椅子の背の方に向けた。また笑いが洩れた。
 今日は粉雪も綿雪も降った。絶え間なく降った。その雪をかき分けて村と森とを往き来するのはどれほど疲れただろう。まして遊び疲れた身体でここまで上ってくるのは……。アリスは消えかかった暖炉を焚きながら、紅茶かコーヒーを尋ねた。紅茶という返事だった。
「去年は何かと忙しない年だったわね」
 「あァ」と絞り出すような声で魔理沙は答えた。アリスは、自分で発した去年という言葉に浮かべる思い出が、どれも魔理沙と二人で遊んだ記憶であることに、なんとなく透明な好い心持がした。そうしてふと、魔理沙も同じ気持ちでいると思うのは贅沢かしらと思った。顔色を窺う。ぼんやりと天井を仰いだその夢現の様子からは何もわからなかった。
 ようやく暖炉の火が勢い付いて、眠気を誘うほど暖かい。アリスはしばらく心地よい回想に浸っていた。追憶の一年はゆっくりと過ぎていく。やがて思い出の中の除夜の鐘が、去年を葬り去った。今年が帰ってきた。
「今年はどんな年になるかしら……」
 今度は返事がなかった。今年という来るべき年の誰も想像しえないことを教えるように、アリスの投げかけた問いは、独りごとになって消えた。アリスもまたそれをよしとするように静かに微笑んで、口を閉ざした。
 西の窓が赤く染まり始めた。立ち枯れた冬木に見透しのいい東の窓も、すぐと鉛色の夕霧が立ち込めて、濛々とした鈍色の中に沈んでしまった。部屋の中は明るく見える。魔理沙のために淹れた紅茶はまだテーブルに口のつかないまま、紅い面に波ひとつ立てず恬然としている。
 折からどさりと崩れる音の聞こえたのは、庭の樹に積もった雪が落ちたのだろう。と、その余韻の消えた折から、くうくうと乾いた眠りの音が聞こえてきた。見ると魔理沙はもう胸を大いに上下して、依然腕を床に垂らしたまま、ぐっすりと寝入っていた。
 何よ、遊びに来たんじゃなくて、眠りに来たんじゃない。とアリスは心に言った。可笑しくて言った。嬉しくて言った。そう、嬉しかった――こうして眼を瞑って眠っている様子を眺めていると、心の底からほっとしたような、暖かい気持ちになる。
 迷惑をかけるから。そんなつまらない理由で足が遠のくことのないことを、アリスはほんとうに嬉しく思った。たとえ何もできなくても、ただ来てくれるだけで、いつも淋しいこの部屋が、この冬が、ふたりになる――それだけで自分が十分しあわせになることを、魔理沙がわかってくれていることが、嬉しかった。尋ねてきて一言も話し得ず、ただ眠りにやって来たということが、そうして殊更済まなそうにするでもなく、ただ黙って眠ってしまったことが、どうしても、嬉しくて堪らない気持ちになるのだった。
 ゆらゆらと燃え立つ暖炉の焔に、赤く照らされる魔理沙の遊びつかれた寝顔を、アリスはじっと――振り返るべき懐かしい思い出も、待ち焦がれる晴やかな未来も、すべてがそこにあるというように――夢見るような深い眼差しで、見戍みまもった。
 静かだった。ひとり影のような部屋に沈んで、一穂いっすいの灯心に人形を繕ういつもの寒夜よりも、ふたり暖炉の明りに身をひたして、無言のうちにまどろむ今日の夕べは静かだった。厚く森を覆う雪も、重く樹影に篭める霧も、次第に迫る宵闇も、すべてふたりのために、外界の響きを和らげて伝えているように思われた。
 アリスは魔理沙の頭からそっと帽子を外し、抱き起こして雪水にしとった上着を脱がせると、宵の入りは俄かに冷え込む近ごろのこと、少し厚手の毛布を掛けてあげた。そうして畳みかけたその服に、ボタンのひとつ取れかかっているのに気がついて、長椅子の端に腰掛けながら丁寧に縫い始めた。
(2008年01月10日 「東方創想話 作品集その48」にて公開)

Zip版あとがき

私はいわゆるマリアリについては賛成派でも否定派でもありません。ただ本編でも二人で行動している以上、仲が悪いってことはないだろうくらいには思っています。 そうして同じ魔法使いとしてよき友人であるなら、こういうシーンも見られることがあるかもしれない……と例によって妄想逞しく書いたのが この「ふたりの冬」。たいへん短いものですが、これ以上長くするのもなんとなくためらわれて、ほんとうに一シーンを垣間見る程度の 作品に仕上げてしまいました。