飴売り神社とかわいそうな話

 博麗神社は空っぽである。
 境内に人は絶えて久しい。砂利道はただ寒々しく、猫の子どころか閑古鳥さえ鳴きには来ない。小石踏む足音の最後に聞こえたのはいつのことだったろう。神呼ぶ鈴の次に鳴らされるのはいつのことになるだろう。初詣、それさえ賑ったとはとても言えない――しかしそれ以来は殊に寂れてしまった。無人の気配はなおさら人を遠ざける。長く顧みられる事を忘れて、いまに廃墟と化しそうな神様の家! 博麗神社は、まるで幻想郷の記憶からぽっかり閑却されたように、そっと人知れず高台にそびえているのだった。
 冬晴れの好い朝である。博麗の巫女は板敷の階段を不機嫌そうに砂利へ降りて、使い終わった映画のセットのような、閑散とした神社の一隅に立った。
 今日も博麗神社は空っぽである。しかし何を置いても空っぽなのは賽銭箱である。毎朝の習慣に霊夢は格子の隙を覗き込んで、いつに変らぬ淋しい板底にかくんと肩を落とした。十中八九、裏切られるとわかっていながら、いつもほんの少しは期待せずにはいられないのである。折しも吹き添えた冷たい風に、ふいに切なくなって、人知れぬ涙さえ浮べた。
 ああ、山成す銅色、輝く銀色。見果てぬ夢に、霊夢は朽ちかけたような賽銭箱の縁をそっと撫でた。蹴飛ばせば風に吹かれて転がっていきそうな、質量感のあまりに乏しいその箱に、ぐたりとその身をもたれた。淋しかった。金の無心は無くても、目覚めた布団のうちに必ず抱く果敢ない期待の心を打ち砕かれる毎日が淋しかった。
 ――賽銭なんて、誰も入れやしない。
 ふと独りごちたその言葉が、空箱に涙を抑えきれなかった感傷的な今日の気分に、逃れがたい真実のように思われた。滲んだ涙はとうとうこぼれた。古木の底にぽつんと染みて、跡になる。
 霊夢は賽銭箱を離れて、箒を手に、石畳の砂埃を掃きはじめた。
 小さな鳥が、箒の掃く先を低くかすめて飛んで行った。注意して見ていなかったので、何の鳥かはわからなかった。時々鳥居の向こうに朝日を見た。それは何かを啓示するように潤んで眩しかった。光に充ちた日向の明るさが眩暈を誘う。風はくさぐさの匂いを運んでくる。時折視界の端に賽銭箱が映る。脳はぐるぐる、溶けたようにぽうっとして、誘惑に満ちた考えが胸中に湧いてくる……。
 忽然、かつんと柄が鳴った。巫女の手から箒が落ちた。
 ――何か売ろう。
 このとき、霊夢の中で「無償の愛」への希望はついえた。所詮この世は取るか取られるかギブアンドテイク、性善説には限界があることを、突如として悟ったのである。神様だって、貴重な時間を割いて祈りを捧げなければ、何もしてはくれないじゃないか? 欲しければ、与えて、貰う。そして過剰に貰うしかない。世知辛い現代では、賽銭という古人の残したシステムの、もはや満足には機能し得ないことを、霊夢はついに確信したのであった。寝ぼけ頭の啓蒙!

 次の日、幻想郷から巫女が消えた。

***

 そのまた翌日、博麗神社には飴が並んでいた。
 棒の付いた大きなあんず飴である。透き通る飴の中に杏子を浮べて、庇の日陰にも艶やかに赤い。手に取る人のお腹も眼をも満足させる、結構な品だった。階段きざはしのところまでも、甘い香りがふわりと漂ってくる。平板にありあわせの更紗を敷いた急拵えの売り台は、賽銭箱にぴたりと横付けされて、境内に入ればいやでも目に付いた。
 ――霊夢が飴を選んだのには訳がある。
 幻想郷にも飴はある。縁日には綿飴も水飴も鼈甲べっこう飴も並ぶ。けれど平素ふだんの巷に、口慰みと同時に手慰みにもなる棒付き飴というものの案外珍しいことを、巫女の炯眼は見抜いていた。
 そして金額、これも対価が小銭であることが大切なのはもちろん、売るもの自体、出来れば重苦しさのない、景品に近いものの方が好ましかった。というのも、いくら売り物をするとはいえ、巫女たるものそうそう敬虔な気持ちは割り切れず、出来るだけ本格的な商売の感じを出したくなかったのだった。欲しいのは利益でなくお賽銭だ。だから立ち寄った人が、そう、賽銭のお礼に貰っていく、、、、、、、、、そんな気分になるような、おまけ程度の品にしたかった。そのために飴は格好だった。わざわざ外の世界まで仕入れに行くこと、利ざや云々は話にならなかったが、それでもいっこう構わなかった。
『博麗神社特製杏子飴、好評販売中。一本金九拾圓』
 宣伝の看板は、木枠に朱塗りの文様を凝らして、仰ぎ見る鳥居より目を引く作りに拵えた。石段を下ったところ、通りかかる人の目にもしっかり止まるように立てた。「この先博麗神社」と書かれた古い立て板は抜き取られた。そうしてそのまま朽ちて肥やしになれとばかり、無慈悲に草叢の中へ打ち捨てられた。

 その看板を立て終えた時のことである。緩やかな勾配の坂を街の方から登って来る者がある。
 八雲の主従だった。買い物帰りらしく両手にいっぱい荷物を提げている。簡単な挨拶を交わして、久しぶりだしあがっていけば、と促すと、藍はううん、と難色を示した。さすがの荷物の分量に、石段を上るつらさをどうしようかと悩んでいるらしかった。そのとき、
「藍さま」
 と控えめな声がして、橙がそっと藍の裾を引いた。そうして霊夢の脇の看板を、もうそこに美味しいものを見つけたかのようにじっと見ている。
 どうやらさっそく猫がかかった。
「飴か、橙、欲しいのか。どれ、買ってあげよう――ふたつ貰えるかな」
 その猫に狐がかかった。
 こうして最初の飴はあっさり出た。これは意外といい商売かもしれない、と霊夢は思った。
 適当な雑話を交わして石段を登る。荷物は少し持ってあげた。予想以上に重かった。この石段の長いことも、客入りの少なさと無関係とは思われないと、しみじみそう思った。
「はい、どうぞ」
 はじめてのお客さんにはと、とくべつ大きいのをってわたした。橙は猫眼をきらきらさせながら、宝石でも受け取るように大事そうに両の手でそれを握った。
「お代は賽銭箱ね」
 硬貨の賽銭箱に投げられて、かつんかつんと小気味いい音が響く。その響きが耳の奥をくすぐると、途端、予想だにしなかったほどの歓喜が霊夢の胸を衝いた。背筋の震えるような、言い知れぬ幸福感、指先まで痺れるような妖しい快感――これが巫女たる者の至福でなくて何だろう! あまりのことに、思わず正気を失いそうになった。早鐘のように鳴る鼓動を懸命に沈めて、向き直ると、二人は揃って不思議そうに霊夢を見ている。汗だくの額を拭って、乾いた笑いにつくろった。二人とも特別気にした様子はなかった。
 帰り道、橙はほんとうに満足らしく「藍さまありがとう」と言葉にも表情にも屈託なく礼を言った。遠くからでもその朗らかな笑顔が窺われた。その思わぬ役得に藍もまたこの上なく幸せそうであった。ふたりはもういちど神さまに一礼して帰っていった。霊夢もまたその後ろ姿を手を合わせて拝んだ。幸福の余韻はまだ胸のあたりをいっぱいに満たしていた。

***

 その日のうちにも、飴はまずまず売れた。非常な満足だった。けれど霊夢にとって売れ行きよりもうれしい収穫は、ひそかに企てた額面の計画が見事に上手くいったことであった。
 一本九十円である。お釣は出ない。したがって皆百円を入れていく。差分の十円が賽銭と思えば自ずから嫌気も差さないと見えて、文句を言う客はいない。「九十円」と二桁を標榜しながら白銀の硬貨を蒐集できる、なんという素晴らしい策! しかしそれだけではない。それだけではなく、このシステムは完璧だった。稀に細かい持ち合わせのある客がいようとも、一度に九枚の銅貨を放り込めば――その格子に絡みつつ落ちていく、がらがらという重厚な音の快感といったら! まったく、九十円はどう転んでも都合のいい値段なのだった。

 その夜、霊夢は床の間に天井を見上げつつ考えた。――「友達と一緒なら十円引き」。このフレーズはまた名案に思われた。売り上げがたかだか十円くらい減ろうと、一人の客が二人連れに化けるなら言うことはない。ましてどうせ大概は百円を放っていくのだから……。
 霊夢は寒さをおして床を抜け出すと、行灯の光を引き寄せて、薄暗い室のさなかに告知のはり紙を熱心に書き上げた。
 次の日の朝、「友達と一緒なら十円引き」の渾身の文句は売り台の正面に貼られた。

***

 石段の下には人通りがまずまずあると見えて、看板を出してからというもの、登ってくる客は絶えなかった。

 小さな客も来た。
「飴だ! 霊夢、あたいにもちょうだい」
「あんた、お金あるの?」
「レティにおこづかいもらってるもん。ほら」
「ふうん。なんで全部五十円玉?」
「レティが、飛びまわっても散らばさないようにって」
「ああ、それであんたのおこづかいは、ご丁寧に紐でくくってあるわけね」
「ふふん、かっこいいでしょ」
「……まいどありー」

 大口の客もあった。
「幽々子さまいけません、それは今晩の夕飯の材料を買うための……」
「夕飯がちょっぴり飴になるだけじゃない」
「そ、そんなのイヤです!」
「霊夢、二十個頂戴」
「まいどありー」
「あ、ああ、待ってくださいまだ……って幽々子さま、まだお支払いしてないのに口に入れたらダメじゃないですか!」
「……ま、しょうがないわね。ほら、お代入れて来なさいな」
「うう……」

 常連の客もついた。
「レミリア。いらっしゃい。あら、今日はメイド長さんもご一緒で」
「今日は咲夜にも買ってあげる。霊夢、ふたつね。――あ、待って」
「ん、どうかした?」
「……今日は、フランにも買っていってあげようかな……」
「お嬢様……」
「うん。たまには皆にお土産もいいわね。じゃあパチェの分もあわせて、四つ」
「ええと、お嬢様、お土産なら、ひとつ足りないかと」
「ん……あ、そっか。ごめん霊夢、五つ頂戴」
「まいどありー。またいつでも来て頂戴ね」

「咲夜はやさしーねぇ。こういうときもちゃあんと小悪魔の分まで考えてあげるんだから」
「……え」
 石段の向こうでそんな会話が聞こえた。もう陽が落ちる。

***

 さすがに今日は店仕舞いと、売り台に夜風をしのぐ覆いを被せようとしたとき、じゃりっと石を踏む軽快な音を聞いた。魔理沙が来た。今日は着地を仕損じなかったようで、箒を片手に、得意げに腰に手をあてている。
「なんか面白いことやってるってな」
「情報が遅いわね」
「来るのが大儀だっただけだぜ。で、何やってるんだ?」
 鳥居もくぐっては来ない魔理沙には、石段の下の看板も意味がないとみえて、魔理沙は「面白いこと」が何のことかはわかっていない。霊夢は黙って売り台を指した。魔理沙はそこに見栄えのいいあんず飴の整列を見て「へえ」と感嘆した模様、しかしすぐにその下の「友達は十円引き」の貼り紙に注意を取られ、それをしげしげと眺めて、
「おまえ、なんつーあくどい商売を……」
 と言うと、賛成しかねるとでもいうふうに、帽子のつばに手をあてた。「いくらだ」と問うのに「九十円」と答えると、その値段には良心を感じたらしい、ふうん、と小さく頷いた。そうして階段を上がり、賽銭箱を尻目に、あんず飴のひとつを手に取ると、くるくると棒をまわして、
「しかしまあ、百円にしちゃあ割とでかい……」
「九十円よ」
「どっちだって同じだろう」
「同じなら百円払っていって頂戴ね。手に取ったら返品不可」
 そう言い放つ霊夢を、手にしたあんず飴と見比べて、苦々しく笑う。
「まあいいさ。珍しいし、アリスにも買って行ってやろう」
「じゃ、二百円ね」
「友達は八十円だろう?」
「連れて来たらの話」
 魔理沙はしぶしぶ二百円を投げていった。飛び立つ間ぎわ、何か一言二言恨み言を言って、売り言葉に買い言葉、霊夢は皮肉めいた冗談を返しながら、残った飴に覆いを被せて留めた。魔理沙は森の方へ飛んでいった。いつしか空は暮れていて、その姿はねぐらを求めるカラスのように見えた。
 立ち話も少々過ぎた。ひとりになると俄かに宵の寒さが肌に迫る。もう来客のないことを確かめるようにあたりを見まわすと、霊夢はさっさと障子のなかへ引き込んだ。

***

 十日ばかりの美しい月が、静かな夜を隈なく照らしていた。
 風の強い夜だった。遠くの海風をまいてきたのだろうか、仄かに塩気を含んだ冬らしからぬ湿り風が、南方から吹き寄せて、夜の境内を行き惑うように低く滑っていく。
 その日、しゃべりながらに張った布の覆いは、留めが緩かった。ふわりとひるがえったかと思うと、夜風に乗って石畳の上へ落ちた。風は晒されたあんず飴のおもてを撫でて、渦巻く中にほんのりその香を帯びた。そうしてざあとやって来た突風に一斉に向きを変えると、枯れた梢に絡みつくように森の奥へと馳せ去って行った……。

 やがて黒い糸が砂利を這う。

***

 翌朝、のべ五十本のあんず飴は悲惨だった。子供の目を引く鮮やかな彩色は見る影もなく黒だかりになって、商品としての価値を残しているものはひとつもなかった。既に食い尽くされて無残に棒だけになってしまったものもある。更紗は飴から飴へ、忙しなく行き交う黒点に、もう元の模様もわからない有り様だった。
 この惨事を目の当たりにしてからの、巫女の行動は早かった。
 陽が照りはじめた頃にはもう、神社では詰問が行われていた。黒いマントに身をつつんだ小柄な少女がひとり、箒の柄に胸を小突かれながら、尋問を受けている。
「そんなぁ、私が、食べたわけじゃないのに……」
「書いてあるじゃない、友達は一本八十円。並んでるの全部で五十本。計四千円よ。お支払いください。――それとも何、あの虫たちは友達じゃない?」
 巫女がきっと飴の黒だかりを睨むと、少女もおずおずとその方を見た。その視線に気がついたらしい、なかには申し訳なさそうに棒をこちらへ下ってくるものもあった。けれども大半はご馳走に夢中だった。少女はそれらにくすんと恨めしそうな眼を向ける。
「言ってごらん。あんな虫なんて友達じゃないって、大声で言ってごらんなさいよ」
 その一喝に怯んだ緑髪の少女はそれきり――割のいいアルバイトでも探しにいったとみえる。しばらく見ない。

 石段の下には、土で汚れたもとの立て板が立てられた。
 そしてまた博麗神社は空っぽである。
(2008年01月21日 「東方創想話 作品集その49」にて公開)

Zip版あとがき

霊夢の最後の発言がそこそこ賛否両論でした。かなりあくどい台詞なので私としても「霊夢なら言いかねない」とはちょっと言えないところですが、 始めから終わりまでギャグの雰囲気でやってきたので、遊び程度のちょっとしたブラックジョークと考えてもらえればと思っています。 あと本音にはリグルをなんとなくいじめたかったという欲求もあったりなかったり。もちろん愛情表現ですよ。