しあわせいなば

 晴れて涼しい。静かな庭をときどき鳥が啼いて通る。鈴仙は座布団を枕に畳の上へ寝ころんで、日のよくあたる縁側の方に頭を寄せて雑誌を見ている。永琳は朝から遠出の用に出て、今日は遅くまで帰らない。因幡たちはみんな連れ立ってどこかへ遊びにいってしまった。小さな座敷には鈴仙と私の二人きりだった。
 昼食のあと、二人とも長いあいだ黙っていた。ちょうど鈴仙が雑誌を読み終えたころ、
「お茶、いれましょうか」
 と言うので、私は書きものを一時中断して頷いた。鉄瓶からお湯をとって、お茶を立てる手つきは以前よりいくらか手馴れていた。永琳が教えたのだろう。加湿のために湯を絶やさないように言うと、一度台所へ立っていって、重たくなった鉄瓶のほかに何かの袋を持ってもどってきた。鉄瓶を火鉢にもどすと、
「お茶うけはこれにしましょう」とこちらへ表を向ける。なんの変哲もない海苔だった。お正月さんざん磯辺焼きに巻いた余りのものに違いない。
「海苔。こんなしけたものしかないの?」
「しけてませんよ」と言って袋の封を切ると、鈴仙は一枚それを噛んで見せた。ぱり、といい音がする。
「そうじゃなくて」
「海苔は体にいいんですよ。一日二枚で医者いらず、海の緑黄色野菜は伊達じゃありません」
 鈴仙は私の書きものを避けたところへ、湯飲みを置いて、そばへ海苔をいくらか添えた。ほんとうにお茶うけにするらしい。
「ビタミンはABCと過不足ないですし、食物繊維、鉄分、カルシウムも十分、EPAも豊富ですから、血圧も下がります。それになんといってもヨウ素が豊富ですね。ヨウ素は甲状腺ホルモンのもとです。これが不足すると、代謝が悪くなるんですよ。姫みたいに一日だらだらしてばかりの人は、こういうもので手軽に補給したほうがいいんです」
 私はその海苔講釈を黙って聞いていた。一息に言い切ると、鈴仙はふう、とつかれたように息をついて、
「ぜんぶ師匠の受売りですけどね」と苦く笑った。
「でしょうねえ」
 海苔を小さく折って口にほうり、舌の上で熱いお茶に溶かす。海苔がいいのかお茶がいいのか、湿っても思ったほどは口の中に貼り付かない。そうして海苔の風味がすんといっそう強く漂う。案外悪くなかった。
「それにしても最後の一言は余分じゃない?」
「余分ですが、うそは言っていませんね」
 永琳がいればきっとたしなめただろう、そのなまいきじみた憎まれ口も、最初から冗談だとわかっているから厭な気もしない。というより、実は予想通りの答えだった。
「姫ほど動かないのは、逆に難しいくらいですよ」
 鈴仙は私と二人きりのとき、よくこういう物言いをするのだ。私はむしろその気兼ねない調子が好きだった。永琳のいるときにはけっして聞かれないくだけた口調と抑揚に、どこか心おきない雰囲気があった。ちょうど親の目を離れた子供のように、本来の姿を見るようで、活き活きしていて気持ちがいい。
 鈴仙に特別うらおもてがあると言うつもりも、永琳を邪魔にするつもりもない。ただ父母子と仲のいい三人家族も、一人が抜ければ、残った二人は自然いつもと違う表情を見せるものだ。永琳だって、鈴仙のいる前では絶対に見せないような力の抜けた一面を、私との時には見せることがある。ふだんもよく見ていれば、たとえ気の抜けた雑談のときでも、やはり師匠は師匠らしく、弟子の前では毅然としていようと努めているのがわかる。あるいは私のいないところでふたりがどんなふうに語り合っているか、私にはわかるはずもないけれど、師弟水いらずで、私のいるときとまったく同じということはないだろう。そうしてそういうことが全部、私には、結局三人仲のいいことの裏返しのように思われるのだ。
 それにしても永琳だけがいないというのは我が家には珍しい。こうして鈴仙と二人だけでいるのは、かなり久しぶりのことだった。
 前の出張のときには、二人ともやっぱり暇をしていたので、これから寒くなるからという鈴仙の配慮で因幡たちのための小屋を建てた。陽あたりのいい庭の一角を選んだ。ちょうどここから見ることができる、ケージをそっくり大きくしたような、木造りのささやかな小屋だ。季節は秋だったけれど、ちょうど今日のような晴れて涼しい日だった。慣れない仕事をして節々を痛め、次の日は一日じゅう筋肉痛に悩まされたのを覚えている。
 その因幡たちはといえば、せっかく苦労して建てた小屋にもいないで、今日も竹林のどこかで気ままに遊んでいる。そう思うと憎らしい気がしないでもない。因幡たちにとって小屋は夜の寝床くらいでしかなかった。暑い時分にはそれさえ嫌って、好んで芭蕉の葉かげに夜を越す変わり者もいた。結局その小屋は、彼らにとってはあればあったで使ってあげよう、というほどのもので、感激するほどの贈り物ではなかったらしい。
 ただ、どんと庭の一隅を占めているそれは、見ているとなんとなく生きものを飼っているという気分にさせてくれる。閑散として淋しい日にも、その小屋を眺めていれば、四匹五匹戯れる兎たちの姿がぼんやりと目に浮かぶ。私にとっては思わぬことながら、そんな恩恵があった。そういう日には、苦労して建てたのもまんざら無駄骨ではなかったように思われる。
 そうしてしばらく小屋のほうを見ていると、
「また買わないといけないものがありますよ」と思い出したように鈴仙が言った。「てゐがこのあいだ文句を伝えて来ました。なんでも、餌箱が古くなっていやだって」
 買うものと言われてちょっとぎくりとしたけれど、餌箱と聞いてほっとした。もうひとつ小屋を建てるという話なら、今度こそご免蒙ろうと思った。
「買ってあげればいいじゃない」
「けっこう高いもので。安いのは微妙ですし」
「全部取り替えるとなったら、はした金じゃ済まないでしょうね」
「姫、買ってくださいよ」
 来ると思った。小屋の材料費だって全部私が出したのだ。自分だってお小遣いをもらっているのに、私がいるとなると是非もなくたかってくる。
 けれど私も私で、その甘えた呼びかたに慣れつけなくて、どうにもいやと言えない。鈴仙にしても、いつもは因幡たちのお姉さんふうに、お小遣いからいろんなものを惜しげもなく買ってあげているけれど、やっぱりほんとうは自分でもさまざま欲しいものがあるのだろうと思うと、なおさら頼られたときくらいは出してやらないと可哀想な気がする。
「そうねえ」
 私は渋ったふりをしていたけれど、もうお金は出してあげるつもりでいた。ただなんとなく、お願いされてすぐに快諾するのが厭だったので、わざと躊躇するように視線を左へ右へ泳がせていると、さっき鈴仙の読み捨てた雑誌のおもてに、取っ組み合いの写真が大きく載っている。プロレスか何かの宣伝だろう。私はそれを見て何気なく、
「じゃあ、あれで私に勝ったら買ってあげる」
 と持ちかけた。口をついて出たものとしては、ずいぶん突拍子のない提案だった。鈴仙はその写真を横目に見ると、呆気に取られた様子で「からだ、あまってるんですか」と言う。そうして雑誌を拾い上げ、不要な紙類をまとめる座敷の新聞ラックに片付けながら、
「無理ですよ。姫のなまった体じゃあ、相手になりません」
 そんなことを言って、勝負にもならないというふうに首を横に振った。頼みをはぐらかす冗談くらいにしか思っていないらしい。私はその早計な決め付けにすこしむっとして、
「そう。じゃあ買ってあげない」
 と拗ねてみせた。鈴仙はとたん困ったように腕を組んで、
「ほんとうに勝ったら買ってくれるんですね」
 と釘を刺してきた。もちろん、と請合うと、ようやくやる気になって、服のあちこちをまっすぐに整え、私のほうに構えた。餌箱を賭けている以上、やるとなれば容赦はないだろう。私も立って構えた。座布団を足で隅へ寄せる。急に立つと脚の節々がずきずきする。
「二言はなしですよ」
 もちろん勝負になんかならなかった。自分では力いっぱいぶつかったつもりが、あっというまに組伏されてしまった。うつ伏せにされたうえに片手を背中に取られて、上になった鈴仙は両足を大きく開いてしっかりと体勢を保っている。上手なもので、どこをどう動かそうとしても、まったく身動きが取れない。
 鈴仙は、私がぴくりとも動かなくなるとさっそく、
「それじゃあ買ってくださいね」と得意らしく言うので、
「まだ降参なんて言ってないわ」と私はつい負け惜しみのようなことを言った。我ながら子供じみた言い分とは思ったけれど、言ってしまえば今度は引っ込みがつかない。この性質の悪い往生際の悪さに、鈴仙は思ったとおり気を悪くして、
「姫、それはずるいですよ」
 面白くなさそうに言った。私が起き上がれないように肩だけは押さえて上になったまま、背中に取った手も離して、なんとなくしらけた様子でいる。けれど私はそうされても、まだ降参する気になれなかった。鈴仙はしばらく思案に暮れていた。私も黙っていた。さぞ焦れ焦れしているだろうと、すこし鈴仙に悪い気がしてきたころ、ふいに、
「じゃあ降参って言ったらほんとうに負けでいいんですね」
 と鈴仙は言った。言って、肩を押さえる手が離れる。と、両の脇に細い指先が滑り込んで来た。
 瞬間、何をされるか察したので、慌てて「降参、降参!」と叫んだ。それでやめてくれると思った私は、叫んですぐに脱力した。けれど指は今にも曲げんと力んだまま、まだ左右のあばらにしっかりとかかっている。ひ、と知らず情けない悲鳴が洩れる。
「案外弱いんですね」
 その言い方がなんだかからかわれているようで面白くなかった。けれどあばらの隙にちょうど埋まった指先の気味悪さに、そんなことを不愉快に思う余裕はない。
「降参って言ってるでしょう」胸のまわりがぞくぞくして絞り出す声が震える。
「延滞料がまだです」
 鈴仙は今度こそ勝ち誇ったように言った。そうして、
「おやつも一緒に買ってきていいですか。あ、あと飲み物も」
「飲み物って」
「たまには一緒にどうですか」
「夕食前から飲んでたら永琳に怒られるわよ」
「師匠にはもちろん内緒ですよ」
 と悪いことを言う。その言い方にまたふだんにない愛嬌があった。私はくすぐられるのも絶対にいやだったし、これ以上反抗する理由もなかったから、あらがいようもなく鈴仙の申し入れを承諾して、ようやく上からどいてもらった。
 鈴仙はほくほくして私の財布をまるごと持って出かけた。あれもこれもで、いくらになるかわからなかったので。脇の下にはまだ薄気味悪い指先の感触が残っていた。そうして背中には、ついさっきまで鈴仙の乗っていたところに、ぼやんとあたたかい体温が感じられる。
 ひとり背中へ手を伸ばしてその体温に触れる。じわりと手のひらが温まる。この暖かさを残していって欲しいばかりに、慣れない遊びを持ちかけては、ぐずぐずといつまでも降参するのをためらっていたことに、やっと自分で気がついた――。そう気がついてみると、妙にほっとした気持ちになった。長いあいだ自分の中にこびり付いて離れなかった些細な不安が、きれいに洗い落とされたような気がした。
 そうしてこのささやかな気持ちの変化、癒やし、慰めの正体を、たぶん私は知っていた。それはきっと、ほかの誰とのあいだにもない、私と鈴仙の微妙な関係が生み出したものだ。
 八雲のところとも違う、白玉のところとも違う。私たちは家族でも主従でもない。鈴仙にとって私は棲む家の主でしかないし、私にとっても鈴仙は家に棲む飼い兎でしかない。目にこそ見えなくても、私たちのあいだにはいつも隔たりがある。ある程度以上はお互いに進み入ることのできない、暗黙の距離がある。私は鈴仙を、永琳ほど身内に感じることができない――けれど、それは心地のいい距離だった。抱擁を与えることはできなくても、静かに見守ることのできる距離だった。
 私と鈴仙。月から地上へ、居場所を失ってさまよう二羽の鳥を、降りかかる災禍は偶然のうちに出会わせた。そうして出会ったところへ、つづく歳月はなお北風のように吹き寄せて、ふたりに身を寄せあって行くことを教えた。吹く風の穏やかになったころには、私たちはもうりっぱな旅の道連れだった。遠慮と笑いからはじまる穏やかな付き合いではなかったけれど、そうした波乱の中の出会いは、私たちのあいだに近すぎず遠すぎない距離をいまでも保ちつづけていることに一役買ってくれたと思う。
 深刻に心情を吐露するまでもない、けれど次第に心を蝕んでいくような日々のつらさや淋しさには、鈴仙くらいの距離がちょうどいい。永琳では近すぎる。親しすぎて癒せないものもある。私の大切な飼い兎――きっと鈴仙がいなければ、私はいま誰にも拭うことのできない小さな淋しさを積もり積もらせて、そういうものを、人知れず抱えて生きているに違いない。
 永琳は中から、、、私を支えてくれる。鈴仙は外から、、、私を支えてくれる。陰になり日向になるべきひとりの人はいなくても、私には、心許せる陰も日向もあるのだ。なんという幸せなことだろう……。その日向のあたたかさが、しだいに背中から消えていった。私は端に寄せた道具を引き戻して、中断していた書きものを仕上げてしまった。そうしてただぼんやりと鈴仙の帰りを待った。
 三時過ぎ。鈴仙は立派な餌箱と、酒屋の袋を提げて帰ってきた。だいぶ上等なものを買ってきたとは、返してもらった財布の薄さで知れた。まるごと預けたのはやっぱり失敗だった。
 お土産の酒はほんとうにいいものだったので、燗をつけた。鈴仙は餌箱の取り付けを済ませてもどってくるや、せわしなくノートや本をテーブルに広げて、
「師匠から宿題をもらってたんでした」
 せっかく燗した酒をよそに、慌てて課題に向かいはじめた。私はお先にお猪口を傾け、ちょっぴり御機嫌になって、
「見てあげようか」
 と体を寄せて覗き込んだ。丁寧な字がきれいに縦横に並んでいる。
「姫にわかりますか、数学ですよ」
「私が何年生きてると思ってるの」
 啖呵を切ったものの、案外難しい。時々紙の上に覚え書きを走らせながら、ほろ酔い頭に記憶をたどりたどり、なんとか面目は失わずに済んだ。鈴仙はいやに感心していた。そういえば数学など見てあげたことはついぞなかったと思った。
 課題も終わり、買い込んだおやつからココナツの砂糖漬けをつまみに二杯三杯重ねるうちに、鈴仙はほおずきみたいに赤くなって、そのことを笑ったら、私もすっかり赤ら顔になっていることを反対に笑われた。長い思案のあとで酔いやすくなっていたかもしれない。たった一瓶の酒の尽きるまで、たわいのない歓談に懐かしいような和やかな時間を過ごした。酌み終えて一時間もすると、ふたりとも酒気はすっかり抜けた。酒の跡は大目玉怖さに鈴仙がしっかり始末をつけた。
 永琳の帰りは大分遅かった。
 もう日が暮れかかる頃だというのに、朝から遠出にも関わらず、いっこう疲れた顔は見せない。ほんとうに感心するほど仕事慣れている。そうして荷物を置くやすぐに、
「夕飯の支度をしましょうか」とせいを出す。
「赤魚が煮付けてあります」
「ごくろうさま、うどんげ」
 鈴仙の口調はなんとなく和やかなトーンに変わっていた。私の態度も自然変わったかもしれない。永琳がもどって、座敷の雰囲気はさっきまでとはまた違う、心地いいものになった。
 そのころちょうど因幡たちが竹林から帰ってきた。数からすると、帰宅第一陣というふうだった。半分以上はまだ戻らない、てゐも第一陣にはいないらしい。門限を過ぎれば夕飯のおかずも減らされる。常習犯だけに心配になる。
 彼らは小屋に入るなり新しい餌箱を見つけて、思い思いに触れたり嗅いだり眺めたりしては、ぐう、ぐうと鳴いていた。それはおおむね希望が適って喜んでいるように見えた。やがて第二陣がざくざくと竹林を抜け出して来た。ぞろぞろと連れて小屋に入っていく。てゐの姿はまだ見えない。今日も彼女は揚げ物にはありつけないだろう。
「今度は餌箱ですか」
 と小屋の中の新調品に気づいた永琳が言った。自分が遠くへ出かけるたびに永遠亭に何かひとつ変化があるのを、可笑しく思ったかもしれない。
「出張もほどほどにしてもらわないと、お財布が持たないわ」と私が厭味らしいことを言うと、永琳はけろりとして如才なく、
「因幡たちばかり幸せになりますね」と言う。
 私も今日はそこそこ楽しかったけれど、何が楽しかったと聞かれても答えに困る。夕酒のことはふたりの内緒だ。それにやっぱりいちばんの幸運は因幡たちだろう――私は「そうね」とただ一言にうなずいた。鈴仙は笑っていた。
(2008年01月29日 「東方創想話 作品集その49」にて公開)

Zip版あとがき

姫と鈴仙は実は永遠亭で一番好きな組み合わせ。その微妙で楽しい関係を自分なりに表現しようとして書いたのがこの「しあわせいなば」です。 短めのお話としてすっきりまとまった感触は、割と自分でもお気に入りの一作。そんなにメジャーではない姫と鈴仙という組み合わせに、 あくまで自分好みに徹したほのぼの感もちょっと過剰かなと心配していたところ、 コメントでは思わぬ好評をいただいてたいへん驚きまた嬉しかったものです。