Shiraha.Zip

蝶々の日々

「私、縁談決まったわ」
 霊夢は鉄瓶を取り、こちらに背を向けて言う。面と向かって言うのはためらわれたのかもしれない。湯気立つ湯呑を静かに魔理沙へと差し出すと、返事をうかがうようにじっと眼を見た。
「そうか。ようやく、か」湯呑に手を温めながら、魔理沙は答える。
「何よ、ようやくって」
「二年前くらいからいろいろ、ごたごたしてたじゃないか」
「まあね」
 ふ、と霊夢は息をつく。考え深そうな目つきは手許へ落ちている。
 魔理沙は、たぶん自分は霊夢の期待していたような言葉を返せなかっただろうと思った。とっさのことで、名優さながらの気の利いた台詞は浮かばなかった。けれども仕方がない。そんなことで殊更気を悪くする霊夢でもないだろうと、ちょっと顔色を窺うと、さしては落ち込んだ様子も失望した様子も見られなかった。ほっと安堵する。けれど、なにか違和感が消えない。霊夢の態度に関わらず、妙に重苦しい雰囲気が籠めている。自分が理想の返事をできなかったのも、そのせいという気がする。
 実際のところ、さきの霊夢の告白は、魔理沙にはそれほど深刻な重みをもって感じられなかった。ただ、ぽんとよく響く音で心のどこかにピリオドを打たれたような一瞬の驚きだけを感じた。そうして湧いてくる感想と言えば「ようやく」と発したその言葉の通りだった。ふたりとも今年で二十二になる。
「呼んだ理由はそれか」
「そりゃあ、そうでしょう。まだ誰にも言ってないのよ」
「じゃあ、私が言いふらしていいわけだな」
「ほどほどにね」
 二度目のため息とともに、霊夢の口許がゆるむ。魔理沙が今日ここへ訪ねて来てからはじめて、ようやく浮かべたその笑みらしい笑みは、しかしどうしてもこの場に穏やかな風を送り込んではこない。やはり何かが邪魔をしている。その何かに引きずられるように、霊夢は表情をもとにもどしてしまう。そうして肩の緊張を解そうとするように、首をぐっと後ろへ倒した。束ねた側髪がさらりと肩の向こうへすべり落ちる。その音が魔理沙の耳にもはっきりと聞こえる。静かだった。いやに静かだった。静かになることで、何かひとつの深刻さを誤魔化しているような気がした。息がつまるようで、すっと胸のく静寂がない。
 背中の庭を返り見ると、そそぐ陽の箭はだらりと鈍く、花壇のあたりは溶けるような腐れるようなぬるい空気に満ちている。その傍を蝶々が飛んでいる。一匹がひときわ高く舞う。今年の梅はよく育った。そのかげに菜の花ももう咲いている。菫はもうすぐだ。花の季節が来る。どんどん暖かくなる。気付けばすぐに蝉が鳴くだろう。蝉の声が消えれば桐の葉が落ちて、それも落ちつくせば、あっという間にまた白い白い雪が降る――きっと寂しい冬の日に。
「なんか」
 居心地の悪い静けさに耐えかねて、魔理沙はつとめて声を出そうとした。けれど曖昧に開かれた口から洩れる曖昧な言葉には、絶望的なほど何の力もない。
「なんか、淋しいな」
 せめて胸の内に渦巻く気持ちを、包まず素直に述べた。ほんの少しでも不穏な空気を払いのける力を持たせようとして。霊夢はそれに感付いたように、天井を仰ぐのをやめて、
「淋しいって。会えなくなるわけじゃあるまいし」
「わかってる」
「博麗の巫女は、とうぶん辞める気はないつもりだけど」
「辞めてもらっちゃ困るさ。代わりがいるわけでもない。……そうじゃないんだ」
「じゃあ何よ」
 煮え切らない返事に、霊夢は声を張って問い返す。そのぴしゃりとした物言いに、魔理沙はどこか懐かしさを感じて、はっとした。そうしてただ口の中で「そうじゃないんだ」と小さく繰り返した。
 魔理沙は自分の避けているものに、もう気付いていた。ずっと共に過ごしてきた親友の、結婚というひとつの転機を目の前に据えては、いやでも意識せざるを得ない、これまでの自分。歩んできた道のり。自己の系譜。それを紐解くのが怖かったのだ。できることなら口にしたくなかった。このまま黙って、意識の彼方に消してしまいたかった。けれど、細い糸ほど絡まってしまえば解くのが難しいように、そんな些細なことだからこそ、一度結び目をつくると、心の中に拭いがたい点として残ってしまう。それが不安になり、違和感になる。
 霊夢もきっとそれに気がついたのだろう。三度目の、長い長い息を吐いた。そうして両手で机に頬杖をつくと、音なき音に耳を澄ますように、そっと目を閉じた。
「私、嫁にいくのは絶対あんたが先だと思ってたわ」いつになく優しい声。
「ふうん? なんでだ」
 どきりとする。魔理沙のためらっていたところへ、霊夢は躊躇なく踏み込んだ。たぶん、別れ離れになって孤独のうちに耽るより、いっそ二人のうちにと決心したに違いない。そうしてこの不快な沈黙に早々と解決をつけようとしている。こういうとき、魔理沙は一番よく霊夢の強さを感じる。闇雲な勇気でも突進でもない、ただ心の芯の揺るぎなく、事に怖じない強さ。思えば昔からそうだった。
「活発で行動的で、みんなの人気者で。あちこちで愛嬌振りまいてる間に、いつかどこかで素敵な恋でもやらかして、さっさと嫁ぐと思ってた」
 霊夢はつづける。もう瞼の裏に、幼い頃の霧雨魔理沙を見ている。すぐに後を追わなければいけない。けれど霊夢の駆け出した先は、夜の街灯に照らされた細い路地のように恐ろしげな薄紫をして、容易に一歩が踏み出せない。遠くは重たく匂う紫に埋もれて、分け入るには並ならぬ勇気がいる。遠い遠い子供時代、、、、。きっと痛みを伴うだろうと知れた、そこへの追憶。自分の中の鮮やかな血肉を見るに、かさぶたを剥がす決心がいる。
「盗っ人まがいのこともしてたわね」
「そう、だったな」
 先を行く霊夢がこちらへ手を差し伸べる。魔理沙はたじろぎながらその手を取る。二人で紫色の中へ沈んでいく。感情の雲がどっと押し寄せてくる。
 はじめに浮かんだのは十四、五ほどの小さな霊夢だった。そうしてすぐにその霊夢の瞳の中に、同じ年ほどの小さな少女を見つけた。編んだ金髪に黒帽子。ああ、私だ――ずきりと胸が痛む。かさぶたが剥がれていく。見るとその体はほんとうに小さくていとけない。
 やがて今よりもひとまわり大きな幻想郷の景色が眼前する。頭がくらくらした。断崖の上、はるか深淵を見下ろす心地がする。体の揺らぐような眩暈に襲われながら、離れたい衝動を胸の内に感じながら、けれどそこを立ち去ることができない。もっといろんなことを思い出したい気持ちに駆られる。あの小さな霧雨魔理沙の過ごした世界を、もうすこしだけ垣間見たいと思いはじめる。
「神社もまだまだ奇麗だったわねえ」
「いやに人が集まった時期に、一気に古くなったのかもな」
 魔理沙は霊夢の言葉に誘われて、霊夢もまたきっと魔理沙の相槌に誘われて、大きな幻想郷をめぐっていく。
 紅魔館が見える。はじめて仰いだときのぞくりという感じが俄かにもどってくる。禍々しくも城のような佇まいで、立ち入るだけでどきどきできる、格好の冒険の敷地だった。まだ大人びない咲夜の姿も見える。その顔立ちは思っていたよりもずっとずっと幼い。飛び交うナイフ。煌めく星弾。泣きたくなるほど懐かしい、懐かしい、お互いの弾幕が脳裏によみがえる。
「ほとんど毎日だったな。弾幕ごっこ。よくもまあ」
「あんたが一番元気だったわよ。なんだっけ、弾幕は」
「パワーだぜ」懐かしいフレーズに、自分ながらじんと眼の奥が熱くなる。
「そうそう」霊夢は緩やかに笑う。
 溜め込むことを許さない元気が、体のうちにありあまっていたように思う。つかれたなんてことが、体を休める何の理由にもならなかった。
 息を吐くのがつらくなるまで遊んだ。指先がしびれるまで遊んだ。からっぽになるのがちっとも怖くなかった。どんなにへとへとになるまではしゃいでも、誰かに話したくなるような大事件のない日はいつでもなにもなかった、、、、、、、平和な一日にしてしまった。
「なんであんなに元気だったかな」
「子供だもの。子供は遊ぶものよ」
「遊ぼうと思って遊んでなんかなかったけどな」
 小さかったあの頃、土や空が自分たちの遊具以外のものだなんて、思いもよらなかった。陽を浴びては髪の毛の燃え立つような暑ささえ心地よく、兎になり風になり、声をあげて大地を駆けまわり、冷えびえするような夜気にも躊躇なくしなやかな手足の肌をさらしては、矢になり鳥になり、声をひそめて大空を飛び回った、あの安穏な日々。窓を飛び出せばいつでもそこにあった。手のひらにすくってもすくっても零れるほどにあふれていた、あのきらきらした時間は、それなのにいまはもう、どんなに求めても、見つけることができない。
「いまじゃ考えられないわね」という霊夢の言葉が、ふいに胸を衝く。
 無邪気な日々は滾々と記憶の底からほとばしる。いつもなら「あの頃は楽しかったな」と笑って話せることのはずが、今日はどうしても、どうしても、どうしても切ない。自分が大人になったことなんて、とうにわかっていたつもりだったのに。幼い時代をともにした親友の嫁入りという、ひとつの区切りを与えられて、今日という日にまたひとつ、自分の中にきまり、、、がついてしまった気がする。それがいっそう自分をあのきらきらした日々から隔ててしまう。追憶のなかの輝きが、またひとつ遠ざかっていく。
「どうしてみんな、なにも変わらないままでいられないんだろうな」
 気付けば声が震えていた。情けないほど芯を失った涙交じりの声が、かろうじて口から洩れる。霊夢は畳に膝を擦って、黙って隣へ来る。そうしてこちらへやさしく身を寄せて、ぐっと強く肩を抱いた。温かい。人の手のこんなにも温かいことを、しばらく忘れていた気がする。
「馬鹿ね。石ころじゃないんだから」
 子供をあやすようなその声も、また微かに震えていた。肩にかけた手に力がこもる。
「それに、ふつうは逆よ? 感傷に浸るのは私」
「……ああ」
「それで、あんたが、なぐさめてくれなきゃ」
「わるい。わるかった」
「わかれば、けっこう」
 霊夢はこつんと頭に頭を打ちつけて、それなり口を閉ざした。どちらとも、もうそれ以上、震える唇で物を言おうとはしなかった。ふたりの頬を伝って落ちる涙のほかに音もない、今度こそほんものの静寂のなかで、しばらく肩を揃えて静かに泣いた。……。
「次はあんたの番だからね」やがて拭いもしない涙が、それでも乾ききってしまった頃に、声の調子を取りなして霊夢が切り出した。
「どうだかな。目処もないぜ」頬に流れた涙の跡を擦りながら、魔理沙は答える。自然、声に活気が戻っているのを嬉しく思った。いい声だと、自分で思う。
「まるきりなかったわけじゃないのに」
「まあな。思うところあり、ってやつだ」
「うかうかしてると咲夜に先を越されるわよ」
「あいつは当分仕事が恋人だろう」
 そう笑い飛ばそうとした瞬間、まったく突然に、親指と中指で輪っかを作った指先が額の目の前に現れて、
「誰の恋人が仕事ですって」
 力を込めた中指が、返事も待たずにぱちんと弾かれた。「たっ!」と思わず声が出る。容赦も加減もない。じんじんと痛む額に、夢から醒めた心地がする。唐突すぎる出来事にわけもわからず目を丸くしていると、退けられた手の向こうにもうひとりの親友の顔を認めた。
「咲夜。どうして」
「挨拶しようと思ったら不穏当な言葉が耳に入ったので、少々時間を止めさせていただきました」
 毅然しゃんとした様子を取りなして、咲夜は居住まいを正す。時間を止めた隙に上がりこんだものらしい。心臓はまだばくばくと強い拍を打っている。突然の来訪に、霊夢までが驚いていた。咲夜はそんなふたりの驚きを気にも留めず、
「さてと、おめでとう霊夢」とまたしても唐突な言葉をかける。
「なんであんたが知ってるのよ」
「とぼけてるの? お嬢様にわからない運命ことはないわ」
「ああ」「ああ」思わず声が被る。滅多にその能力ちからを使ってみせないだけに、忘れがちになる。
「今日は霊夢の大切な日だから、不安そうなら慰めて、晴れやかそうなら一緒に喜んでこいって。私はどっちでもないと思ってたけど――それでも、予想外だわ。何かしら、この不思議な空気は」
「魔理沙がね。ちょっと感傷的になっちゃって」
「うるさいな」
 あらあら、と咲夜は小突いたばかりの魔理沙を振り返り、
「魔法使いは、童心だものね」と笑ってみせる。
「馬鹿にするなよ」
「馬鹿になんかしてないでしょう」咲夜は心外とばかりに首を振って、そうして遠くを見透かすような、どこか懐かしい目配せをする。「私たちも一人くらいそうじゃないと、あんまり淋しいじゃない。あなたはいつまでもそのままで、いいと思うわ」
「わかったから、撫でるな」
「照れちゃって」
「照れてない。それと霊夢」
 急に名を呼ばれて霊夢はうん、と首を傾ぐ。
「その、おめでとうな」
 同じ咲夜の祝辞にも促されて、あのとき言えなかった言葉が、理想の返事が、ようやく素直に口をつく。
「はいはい。ありがとう」
 と霊夢はあっさりした礼の言葉を返す。その軽い調子がどうしても霊夢だ、と魔理沙は思った。嬉しかった。ようやく心の安まる思いだった。
 久しぶりの三人での談笑は、言いようもなく楽しかった。
 あるとき咲夜の可笑しな失態話に大笑いすると、ふいにつかれが来て、笑った勢いに任せてどっと仰向けに倒れた。縁の敷板に肩が触れてひやりとする。大きく口を開けて思いきり息を吐くと、その拍子にわだかまっていたもやもやをいっぺんに吐き出してしまったようで、胸の中がすっとした。「そういえば――相手は――」「ほら――外の――」霊夢と咲夜の話し声が俄かに遠くなる。
 縁の外に首を折れ、だらりと頭を垂らすと、さかさまの庭が見える。下になった灰色がちの冬空は、いつしか庭全体にやわらかい光線を導いて、いかにも蕭散な感じがする。そのどこまでもやさしい光景に、さかさまの頭はいっそうぼうっとして――そのときふと目に映った、花壇の花に蜜をもとめて戯れる色とりどりの蝶々が、もしかしてあの頃の自分たちじゃないかしらと、つい夢のような錯覚に誘われたのだった。
(2008年03月10日 「東方創想話 作品集その51」にて公開)

Zip版あとがき

久々に自分らしさ全開と思えるものが書けました。ここ数作の中では自分の中での最高傑作です。 子供時代はほんとうによかったと言うとき、何がよかったといって、私はそれを「きらきらしていた」と形容するしか ないと思うのです。きらきらしてた。自分も周りも。それ以上のことは、大人になってしまってから 勝手にとって付けた子供時代の感想のような気がしてなりません。 書いている途中しばしば自分で切なくなってしまったのは、ここだけの秘密です。

Shiraha.Zip