イチジクの花

 鈴仙のどこか沈んだ様子が気になって、その日は絶えず、心の中がからっぽになったような、落ち着かない気持ちで過ごした。夜になって、人も因幡もぽつぽつと寝静まったころ、いつもなら私も灯りを落として布団にもぐる時間に、なんとなく寝つかれず予感がして、しばらく本に向かって起きていた。案の定、ややあって、乾いた廊下の軋む音に、衣擦れの音がしんしんと響いてきた。
 そっと、覗くほどに障子が開いて、「姫、起きてますか」と不安混じりの小さな声がした。凪いだ月夜の薄暗い背景に、紅い眼が爛々と光っている。「どうぞ」と答えて、小机に片肘をついたまま迎えると、おずおずと入ってきた鈴仙はもう薄手の寝巻に着かえていて、顔はやはり思いつめたけしきだった。灯りのもとで見ると、瞳の色もいつもよりうすくかすんで見えた。
 私は灯心をひとつ増やして、敷いた布団をちょっと壁のほうへ寄せ、障子向かいに坐り直して座布団をすすめた。鈴仙は腕に抱えていた、イチジクのささやかに盛られた器を畳に下ろして、「少し、つまみながらでも」と膝を折った。
「こっちじゃないんだ」
 と笑って左を利かせてみせると、
「もう錠が下りてますよ。開けたら、師匠に怒られちゃいます」と鈴仙は首を横に振る。
「杯を挙げて愁いを消せば、か」
 色つやのいいのをひとつよってひろい、かじってみた。旬にはまだすこし早いほどで、さっぱりしていい味がする。
「お酒に頼ると、ちゃんと話ができないってこともあるものね」
「そう、ですね」
 鈴仙は小さく頷いて、そのまま視線を膝もとに落としたなり、しゅんとしてしまった。私がさっそく愁いと口にしたので、すっかり自分の用件が見透かされていると思ったのかもしれない。けれども私にはまだ、鈴仙の抱えてきた戸惑いのことは、なにひとつわからないので、
「昨日怒られたのを、気にしてるの」
 とひとまず浮かんだ心あたりを訊ねると、どうやらこれもあたっていたらしく、鈴仙はいっそうしおれて、あごを引くようにそっと頷いた。
「知ってたんですね」
「たまたま通りかかっただけよ。何をやらかしたのかは、知らない」
「調合の失敗ですよ。ぼんやりしてたんです」
「それくらい、よくあることじゃない。落ち込むなんて、らしくない」
「いえ、怒られたから、くさってるってわけじゃないんです。ただ……師匠ならきっと、こんな失敗は絶対しないだろうなって、思っちゃって」
 そういう鈴仙のため息混じりのことばを、そうかしらと打ち消してあげることもできず、そうでしょうね、と答えるしかなかった私は、あらためて、永琳の失敗譚を聞くことがいかに稀か、しみじみと思いだした。長い付き合いながら、思いだせるものは片手に数えるほどもないという気がする。おおもとの計画の抜け目なさにくわえて、その段取りのすべてをとどこおりなく運んでいくだけの器量も、どんな小さな抜け落ちのかけらさえけっして見落とさない集中力も、不可避な予想外のひとつやふたつはいとも簡単にやりこめてしまう柔軟さも、永琳はそろって持ち合わせていた。完全にして、無欠。それにくらべると、鈴仙はずっと人間だった。
「師匠は、天才ですよ」
 という鈴仙の言い分は、たしかにあたっている。けれどその言い方がいかにも含みのある言い方だったので、「知ってるわ」とわざとそっけない風を装って答えると、鈴仙はようやく顔を上げ、たよりなげな、迷子の犬のような目をこちらに向けて、
「それなら」と、訴えるように語気を張った。「私にできることは、師匠が、みんなやれるじゃないですか」
 瞳の帯びる不安の色とうらはらに、その表情はいつになく真剣そのもので、私はようやく、ああ、きっとこれを言いに来たんだな、と思った。けれどその想いのたけを込めたことばも、息の切れめのたびに弱まって、消え入るように言い終わると、それなりまたすぐに顔も伏してしまった。
「なにも失敗だらけの私が、頑張らなくたって」
「でも、あなたことを思えば、永琳のやり方はまちがってないわ。ことあの手のことについては、最高の先生じゃない」
「そうにはちがいありませんけど、いつまでたっても、私は師匠にはかないませんよ」
「師匠と弟子って、そんなものでしょう」
「いつかは師匠を超えるというのが――たとえできるにしろできないにしろ、そういう気概が、師弟ともどもの本懐じゃあないですか。そういう望みさえ、私には持てません」
「あなたの波長を操る能力は、永琳にはないわ。それは、私はよく知らないけれど、病気の原因や治療法を探すのには、貴重なものじゃないの」
「師匠は、私以上によく見えていますよ。診察、治療ということになると、私の能力って、思われるほど役に立たないんです。補助にはなっても」
「勉強していて、あなた自身、楽しくはない?」
「楽しいですよ、他のことをするくらいなら、いまの勉強に打ち込んでるのがいちばんだと自分でも思います。それでも、遊びとか片手間の趣味じゃなくて、ちゃんとした勉強だからこそ、つらいときはやっぱり、甲斐を思っていたいじゃないですか。どんなに遠くてもいいから、なにかひとつ……」
 そこで会話はふいに途切れてしまった。私が返すことばを見失ってしまったせいだ。私は早や、鈴仙の言い分をもっともだと思うよりほかになくなっていた。せっかくの鈴仙の相談にも、いつも以上には冴えてこない自分の頭が恨めしい。真剣に考えれば考えるほど、ふわふわして、朦朧として、気がつけば鈴仙の悩みを私が悩んでいるという、悩み人がひとり増えたというだけの、情けないありさまに落ちこんでいる。
 頑張りなさいのひとことさえ言えなかった。いつかは立派に一人立ちして、天才の弟子として、腕のいい医者として評判になる――匿われる身なれば、そんなささやかな自己顕示の夢を見ることもままならず、かといってとどまれば、最後までその天才の手助けと代役に終わるとわかっていながら、そんな境遇のさなかにある子に向けて、ただ頑張りなさいと言いつづけることは、かえって残酷なことにちがいなかった。
「けれど、鈴仙、あなたには他には――」と言いだしてみても、その先がつづかない。
「わかってます。わかってるんです」
 私が言い淀んだところへ、気遣いからか、鈴仙はさえぎって言った。
「師匠についていくのがいちばんだって、知ってます。だから、これからもそうします。でも、怖いんです、不安なんです。私は師匠みたいに、不老不死でも天才でもない」
 不老不死でも、と口にするとき、鈴仙はほんのすこしこちらを窺うようなしぐさをしたけれど、私はとくに気にした素振りは見せなかった。真実、まるで気にもならなかった。けれども、
「夢とか、希望とか、見えにくくて。なんだか、もしかしたらそういうのってもう、私にはないんじゃないかって、そんな気までして」
 そうつづけられたそのことばのほうは、知らぬ顔で押し通すことはできなかった。口の中が急激に渇いていった。からっぽの心の底がさっと青くなって、冷え込んでいくような気がした。鈴仙は、ほうと息を吐いたなり、もう嘆きの目録を読みつくしたとでもいうように、悄然として、私のことばを待っているようだったけれど、いまは自分の身の冷たさにぞっとして、何も言えなかった。とつぜん過去にほうりだされたような、そんな気がして、寒気がした。
 夢、希望。そんなもの、私にはかけらもないと思っていたのに――?
 蓬莱の薬を口にして、死や老いに決別したとき、私は暗澹というよりほかにない自分の前途を悟った。誰もが焦がれる明るい前途とも縁が切れたと、はっきりと感じた。だから、それ以来私は、人々の夢の薬を形代かたしろに、夢とか希望とか、そういう諸々の未来に満ちた言葉たちは、飲み干した熱い吐息と遥かな時代に永遠に捨ててきてしまったものと思っていた。
 けれどいまふたたび私は、未来が失われていくような喪失感を覚えている。あのときと同じ、暗澹たる絶望感がまざまざと身のうちによみがえっている。いったいどうして、と思うよりもはやく、沈黙を破って、
「そんなこと言わないでちょうだい」
 懇願するような、涙まじりの、絞り出したような声で言ったのは私だった。私も、鈴仙も驚いた。ただ際限なくつらく悲しくなって、その侘びしい、やるせない気持ちを、そうことばにするよりほかにどうすることもできなかった。
「ねえ、そんなこと、言わないで」
「姫……?」
 ありったけのちからをあつめてたいせつなものを必死につなぎとめておこうとするような、そのあまりにも私らしからぬ物言いをいぶかしんで、鈴仙は身を乗りだし私の肩をかるくゆすった。私ははっと我にかえって、鈴仙の眼をまっすぐに覗きこんだ。そうして、瞳にうつる自分の影をまじまじと見たとき、ようやくみずからの思惑に気づいたのだった。影は叫んでいた。夢が、どこかへいってしまう、、、、、、、、、、――。
 目のまえの鈴仙の、腕をとって、引き寄せて、膝もとでぎゅっと手を握って、そうして「そんなこと言わないで」と三度目に繰り返したとき、鈴仙はそれを聞き分けてくれたように――あるいは私の想いも汲みとってくれたかもしれない――こくりと頷いて、ごめんなさい、と小さく言った。
 夢を夢として身近に置いておきたいと心細がる気持ちに、私も鈴仙も変わりはなかった。そうして、鈴仙が夢を見失ってしまったとき、私もまた、最後の夢を失ってしまうのだと、鈴仙が、私の夢そのものなのだと、そのことにはっきりと気がついたのは、はじめてだった。思いつめた鈴仙を見るたびに、心がからっぽになるような気持ちのする理由が、やっとわかった。私はそのとき、失ってはいけないたいせつなものを自分の手で、手のひらで、つなぎとめることができて、心の底からほっとしていた。
「ねえ、鈴仙」
「はい」
 握った手をそっとはなす。そうして、さっきの拍子に転げていった、イチジクの赤い実をひとつ、ひろいあげて、
「イチジクのこと、ウドンゲとも言うのよ」すこしばかり唐突に、私はそう言った。
「そう、なんですか。はじめて聞きました」
「方言だけれどね。花が咲かないように見えるから……」
 ふたりとも、そのつややかな実に視線を取られているあいだ、私の空いた手は知らず、名残惜しさに畳を這って、また鈴仙の指を絡めにいった。鈴仙はそれを拒みはしなかった。そういえば私は昔、よく淋しいとき、永琳に手を握らせてほしいとお願いした覚えがある。私の心は、私の手が、なにかあたたかい血のかよったものをつかんでいるときに、安心するのかもしれない。
「たしかにあなたは、永琳以上の医者になることはできないし」その安心感に支えられて、私の声は自然しゃんとする。「華々しく咲くこともできないかもしれない」
 そう言いきった私の毅然とした調子に、鈴仙はわずかに身構えたけれど、てらりと赤いイチジクの向こうの、焦点の合わない空間にぼんやりと佇む鈴仙は、悲しい表情を見せてはいない。
「でも、私は見たいわ。あなたが、すこやかに育って、なにものか素敵な花になってくれれば……そのときは、私が、そっと覗くくらいは、いいでしょう?」
 手にぐっと力がこもる。私がそうしたのか、鈴仙がそうしたのか、わからない。
「それが、私の夢。叶えてくれる? それが甲斐じゃあ、だめかしら」
「……とんでもない。姫」
 鈴仙はかるく目をこすって、さもさも嬉しいというように、にっこり笑うと、ぺこりと頭を下げた。とくんと胸が拍子を打って、なんだか心地よい重さを帯びた気がした。手に持ったままの実を半分だけかじると、さくりとして、あまい味がした。なかにはイチジクの花が、ぎっしりと詰まっていた。
「こんなふうになるには、ゆっくり自分を充実させないとだめよ。がっかりさせないでね」
「心得ておきます」
 顔を上げた鈴仙の眼は、もとの輝きをとりもどしたように、赤くなっていた。そうしてその赤い目のまま、ふふっと笑って、
「姫、わたしいま、嬉しいですよ」と言う。
「どうして」
「今日、姫も元気がないように見えましたから。でも、もう元気になったみたいで」
「そう?」言われて振り返ってみても、今日にことさら元気がなかったということはないように思う。「それなら、あなたのことが心配だったから、そう見えたのよ」
「だから、ですよ」
 と鈴仙は、子供のはにかみのような、照れくさそうな笑顔で言った。そうして、私の手から、半分のイチジクをぱっと取り上げると、口のなかにほうりこんだ。
「あまいですね」
「もうすこししたら、もっとあまくなるわ」
 声をしのんで笑いながら、しゃべっているうちに、やがてイチジクはなくなってしまった。それがちょうど、ふたりの夜の、おしまいの目途になった。
「姫。ありがとうございました。――明日なにか、お持ちします」
「そう? じゃあ……かき氷」
「ひとつでいいですか」
「ええ」
 部屋を出ていこうとするまぎわ、「ただし」と、われながらたのもしい、凛とした声で呼び止めると、鈴仙はぎくりと立ち止まって、私を見た。そのなかば怯えるような、なかば期待するような、落ち着かない仕草と表情をすこしのあいだ楽しんだあとで、
「スプーンは、ふたつもっていらっしゃいね」
 と大仰に言いつけると、鈴仙はほっとしたようにあどけなく微笑んで頷き、
「おやすみなさい、姫」
 廊下へ出て、ひかえめな会釈とともに、こつりと障子を閉じた。
 部屋は言い得ぬ静けさにつつまれた。燭台の炎がちちちと囁くほかに、音をたてるものはひとつとしてない、うすあかりの夜だった。けれど、耳もとのしんとしたのに引きかえ、心は妙ににぎやかで心地よかった。その不思議さに、自分の姿を鏡越しに見つめてみると、ふと合点がいった。ほっとして、なんだか可笑しかった。しばらく空洞と思っていた胸のうちに、いまはまた鈴仙がちょこんと端座して、ものいわぬ紅い眸がただふたつ、じっと私に微笑みかけていた。
(2008年07月29日 「東方創想話 作品集その57」にて公開)

Zip版あとがき

「しあわせいなば」以来書いてなかったひめれーせんを書きたいな、書きたいな、書きたいなと始終念じていることに気がついたので、 自分の欲求を満たしてあげました。扱っているテーマの割には、一篇としてはライトな仕上がりになっています。

ささえあうふたり。どっちがどっちを助けるというのでもなく、かといって親友のように絶えず悩みを平等に分かちあうというのでもなく、 なんといっていいものでしょう――この感じを表現する言葉を知らないから、私はひめれーせんをSSに書きたいのかもしれません。 ああ、このふたりの微妙な微妙な、距離感、関係。ほんとうに好きです。あとがきになってないですけれど、これまでに。