いたずらガーディアン

「お帰りになるまえに、お茶でもいかがですか。ちょうど入ったところです」
 と、いかにも丁寧な物腰で、小悪魔は、胸一杯に戦利品を抱えて意気揚々と立ち去ろうとする、今日の霧雨魔理沙を呼びとめた。その誘いかける表情は、にっこりとした笑顔にもどこかちょっぴり深刻な陰を落としていたものの、わずかなもので気のせいかもしれず、地下のうす暗い照明のせいかもしれず、ともかくそんなことにはお構いなしで、魔理沙は「お」と嬉々とした声を出すなり、遠慮なく椅子を引いたのだった。
「いいのか、悪いな。本だけじゃなく、お茶までもらっちゃって」
「お気になさらず。もうじきパチュリーさまのお茶の時間ですから。――それと、本は差し上げるわけじゃありませんよ」小悪魔はさも可笑しそうに、くすりと笑う。
「悪い悪い、そうだったな。でもお茶はいただいてくぜ」
 そう言って、マホガニーの円テーブルに、どすんと積みあげた分厚い本は五冊、六冊。どれも年代ものの、銘入りの、貴重千万な代物で、ここより他に蔵書があるとも思われない、文句なく「貸出禁止」の逸品たちだった。もっとも、言い添えておくと、もとよりこの魔法図書館は、蔵書全冊、いずれもお客さまへの貸し出し業務は行っていない。
 真白なカップにゆらりと波打つ飴色の紅茶にひとくちつけて、「さすが」と言うと、小悪魔は照れたように手を前に組んで、頭の羽根をぱたりとはためかせた。
「それにしても」と魔理沙は、ポットの高さほどに積みあげた魔道書たちを、ぽんぽんとペットの頭でも叩いてやるように、叩いた。ふわりと本の香が舞う。「今日はいやに素直に貸してくれるのな。張り合いがないぜ」
「仕方ありません。パチュリーさまは、いま少々、お取り込み中ですから」
 そのいくぶん苦笑まじりの答え方にも、べつだん毒気はなかった。そうして、お取り込み中という小悪魔の言葉通り、たしかに今日のパチュリーは終始何かに追われているようで、どこか落ち着かない、そわそわした様子だった。書架のあいだを自由勝手に散策し、物色してまわる魔理沙にも、いつもほどには気を払うふうもなく、「もっていかないで」と哀れみを請う例の文句も、今日はいちども聞いていない。
 彼女はいまも視界のとどくところで、からの書棚を相手になにかあくせく格闘していた。遠目には小さな動きはわからないものの、おぼつかない足取りで梯子段をのぼり、大きな棚のなかに上半身をまるごと入れ込んで、なにやら隅々まで念入りに点検しているように見える。
「あれって、なにやってるんだ?」
 と尋ねると、小悪魔はちょっと目を伏せて、
「それは……」
 と口ごもった。そのめずらしい態度に、魔理沙はさっそく不思議な話の匂いを嗅ぎつけたらしく、眉をぴくりとさせて、
「なんだ。なにかあったのか」と身を乗りだして、パチュリーの両足と小悪魔とを、興味津々と交互に見くらべた。小悪魔は、
「できるだけ秘密にしておくようにと、言いつけをいただいているのですけれど」と言ってすこしのあいだ困ったような、迷っているような素振りをしていたが、やがてふう、とほそい息をついて、「こちらにいらっしゃることの多い魔理沙さんにとっては、必ずしもひとごとではないかもしれませんし――口外、しませんか」
「口は重いほうだぜ」
「……信用します」
 そう言う小悪魔の表情は、すこし疑わしそうではあったものの、まっすぐに向けられた魔理沙の好奇心たっぷりの視線にも促されて、こほんとひとつ、かわいい咳払いをすると、パチュリーに聞こえないよう声をひそめて、ことのしだいを話しはじめたのだった。
「先月、街の図書館からまとまった数の蔵書をゆずり受けたのですが、そのなかに一冊、厄介な魔法書が紛れていたんです。魔法書といっても、魔法の関連書籍ではなく、本自身が魔法を帯びているたぐいの、言ってみれば本のかたちをした魔道具ですね。ご存じですか」
「たまに見かけるな。レアだから、露天なんかで数奇者相手に高値で売ってる」
「紛れもなく、稀少なものです。けれど、今回わたしたちのところへ舞い込んできたものには、コレクションとしてもまず価値はありません。少なくとも、物を集めている人にとっては――というのも、それは、ほかの魔道具を蝕むんです。しかも効力は感染症のように広がって、際限がありません。明らかに、悪意によってつくられたものです」
 くだんの魔法書はどうやら、その簡単な説明を聞くだけでも、魔理沙のようなコレクターを震えあがらせるには十分な代物だった。
「生物に害はありませんが、接触または至近距離に置かれた物質には、時間こそかかるものの、かなりの割合で感染します。ほとんど人間の風邪と変わりありません。違いがあるとすれば、治ることはないということでしょうか」
「そりゃあ相当タチが悪いな。細菌持ちが増える一方じゃないか」
「昨日、いまパチュリーさまが覗き込まれている書棚にようやく原書を見つけまして、ただちに焼却処分にしたのですが、手遅れでした。すでにかなりの本が冒されていまして、失効してしまった魔法書もありました。――感染した本は原書と同じく、処分するしかありません。魔理沙さん、今日いらしたとき、お屋敷の煙突からまっくろな煙が、ひっきりなしにあがっていたのをご覧になりましたか」
「ああ、見た見た。いやにもくもくあがってて、雲ができそうなくらいだったぜ」
「あれは、感染した本を燃していたんですよ。パチュリーさまも今回の一件で、泣く泣く蔵書をずいぶん焚かれました。焼却はレミリアさまにお願いしています。生半可な炎では、魔法が飛びませんので」
 そこまで言うと、小悪魔は、つとパチュリーのいる側とは反対側の壁を指差した。
「あそこに積んであるものも、すべて処分予定です」
 そこには、まだいちども箱から出されていないような、真新しい、黒色の装丁の、立派な豪華本が何十冊と積まれていた。書名と著者の金色に刺繍された背表紙をずらりとこちらに向けて、うっとりするほど壮観な眺めだった。それをまとめてレミリアの炎にくべるかと思うと、本好きの身にはぞっとするらしく、魔理沙は「ああ」と憐れむような息を吐いた。
「えらいことだな」
「図書館にとっては死活問題です。手を打てる段階で見つかったのが、不幸中の幸いでした。もう対処のほうは大方終わっていますけれども、例の効果が本棚に染みついていないとも限りませんので、パチュリーさまはいま、それを確認されています」
「その魔法書が届いたの、先月って言ってたな」
「はい。ちょうど三十日前です。魔理沙さんが最後に本をお持ち帰りになられたのは、二月前でしたから、それについては時期的に心配ありません」
「たまにここで読んでいったとき、私がその妙な効力を家に持ち帰ったってことはないか。ほら、服とか、手袋とかにくっついてさ」
「感染に数日程度、時間はかかるようですから、それくらいでしたら問題はないと思います。今日お持ち帰りになるものも、しまってあった場所から考えますと、恐らく平気です。けれども、なにぶん憶測ですので――」
「なるほどな。話はわかったぜ」
 小悪魔の話はそこで一段落ついた。紅茶が注ぎ足された。魔理沙はいかにも平静というふうに、パチュリーのほうを見やったり、紅茶の残りを傾けたりしていたものの、ときどき指先は三つ編みに編んだ髪の先をいじったり、帽子のつばを撫でてみたりと、注意深い観察の目には、明らかに落ち着きを失っているように見えた。そこへ、
「小悪魔」
 と、静かな空間にはきとした呼びの声がかかると、「はい」とそれにふさわしい応答をした小悪魔にひきかえ、魔理沙のほうは、肩がびくりと跳ねるほど驚いた。そうして、パチュリーへ顔は向けず、空の紅茶カップに視線を落として、なにか考えごとをしているように見えた。
 それもそのはず、魔理沙が昨日もこの図書館にこっそり忍び込んで、いくらか蔵書をだまって持ち帰ったことは、誰も知らないのだった。魔理沙は焦っていた。なにしろ、持ち帰った本をならべた部屋には、汗だくになりながら遺跡で漁った、アンティーク市で値切りに値切った、知り合いづてに土下座をして集めた、街の大邸宅から命がけで盗んだ、貴重な貴重な魔道具が山とあるのだ。
「この棚はダメそうね。換えはあるかしら」というパチュリーの言葉に、いよいよぎくりとする。
「蔵書を整理すれば、まだいくつかは空けられると思います」
「わかったわ」
 ふたりのやりとりがしんとした地下室にこだまして、尾を引いた余韻が静まったとき、魔理沙はもはや一刻の猶予もないとばかり、とつぜん席を立った。
「めずらしい話を聞いたところで、今日はお暇しよう。それと、いままで借りた本、明日返しにくるぜ」
「そう、ですか? 魔理沙さんのお借りになったものは、二月前のことですし、心配する必要はないと思いますけれど……」
「いや、もうぜんぶ読み終わったんだ。どのみちそろそろまとめて返そうと思ってたところでさ。それと、こいつもやっぱりやめとこう。怖いっていうのもあるけど、考えてみたら今日はこれから予定があったんだ。持っていくわけにも行かないぜ」
「そうですか。それでは、明日お待ちしていますね」
「おう。じゃあ、またな」
 二杯目の紅茶も半分に、そう投げ捨てるように挨拶すると、魔理沙は、我が巣が危急存亡の蜜蜂のように、いっさんに図書館から出ていったのだった。
 ちょうどそこへ、ようやく仕事を終えたらしいパチュリーが、ふらりとやってきた。
「あら……魔理沙、本置いていったの」
「このあとに忘れていた用事を思い出したので、今日は持っていけないとのことです。それで、あの棚はやっぱりだめでしたか」
「ええ」とパチュリーはため息をついた。そうして、壁際にうずたかく積み上げられた、黒色の装丁の、金色の光り輝く刺繍の背表紙をずらりとならべた、豪華本の山をうっとりと見て、
「縦横は十分だけれど、ざっと測って計算してみたら、どうやら冊数が収まりきらないわね。二架ならべれば足りるけれど、せっかくの限定版豪華全集だもの、ひとつところにまとめておきたいわ。悪いけれど、あと二段多いのを据え換えておいてもらえるかしら。一段の縦寸は削っていいから」
「かしこまりました。――それと、魔理沙さんが、いままで持ち帰った本を返してくださるそうですよ。明日、お持ちになると」
「へえ。どういう風の吹きまわしかしら」
「ちょうどいま、レミリアさまがお屋敷の不要物を一斉処分されてますよね」小悪魔はやわらかく、落ち着いた調子で言った。「それをご覧になって、ご自身も家の書棚まわりを整頓しようと思い立たれたみたいですよ」
 そうして、ふうんと納得顔のパチュリーに、小さく頭を下げると、魔理沙の残した本を片しに、ごきげんな足取りで書架のあいだを縫って行ったのだった。
(2008年07月31日 「東方創想話 作品集その57」にて公開)

Zip版あとがき

小悪魔のキャラクターをいよいよひとつに決めようと思って、それまでふたつあるきしていた「物腰やさしい穏やか司書さん」と「いたずら好きの小悪魔ちゃん」をふいに 頭の中で融合してみたところ、ものすごい好みの子になったので、衝動的に書いてみたもの。自分で書いておいて、ああ、今後はこれでいいなあと思ってしまったくらい、 この小悪魔は好きです(笑)