貝殻遊び

 ちょうどお菓子の家に潜ったときのグレーテルが、こんな心地だったにちがいない。ちがうところがあるとすれば、私は踏み入ってみるまでそれと気づかなかっただけに、心の準備というものがまるでなかったということだけだ。まったく急なことだった。家の中の空気に触れたとたん、山道をのぼりまたくだりながらあれをしよう、これをしようと考えてきた私のささやかな予定は、またたくまにパン屑のようにかき消えて、問題にもならなくなった。
 そんな不安と期待と昂奮をいっぺんに呼びさましたものは何か、これは私でなければちょっとわからないだろう。部屋はいつもどおりのたたずまいで、はた目には何の変わりもない。いつもどおりの家具の配置に、いつもどおりの匂いと色彩、いつもどおりの長椅子に、いつもどおりのふたつのクッション、いつもどおりのキャビネットには、いつもどおりの人形がちゃんとならべてある。けれどもただひとつ、いつもとちがうのは、館の主人から「いらっしゃい、魔理沙」とやさしい声のかからないこと、そのかわりに、これほどなんの感情も伝えない人の表情というものがあるだろうかと思うほど、浮世離れした人形的な微笑みを湛えて、ただじっと私を見るというしかたでアリスが私を出迎えたことだ。このことだけが、いまこの家の中を外界という現実からくっきりと切り取っている。大気にほこりの触れあう音さえ聞こえかねない静寂に、外の住人の呼吸し得ない空気が満ちているのは、ひとえにもう遊びがはじまっているから――そういうわけなのだ。
 私はこの世界に参加するためのチケットを、三回の深呼吸で購った。気持ちを落ちつかせてから目をまたたくと、いつもと同じ部屋がいつもとまるでちがって見えた。そうしてさっき私へ一瞥を寄こしたアリスは、いまは向かいの空席を見たきり、もうそこに私が座っているとでもいうふうに、身じろぎもせず動かなかった。私はその視線のなかへ飛び込むように席についた。決勝戦に臨んで、衆人環視のなか、闘技場の中心へ進み出る戦士のような気分だった。
 十にひとつか二十にいちど、こういう不思議な遊びの日がめぐってくる。定期的でもなく、これといったきっかけもなく、ただほんとうに気まぐれに――この親友の中に眠っている、たぶん永遠に棲みつづけているのだろう不思議の国のアリスが、なにかの拍子に身を起こしたとき、彼女の意思かいたずらか、零時零分に無限の想像力を詰め込んだようなファンタジーが、こうして昼のさなかに形を変えてひょっこり現れるのだ。それで私は、そういうものにはなにも考えずただ身を任せるのが、きっといちばん愉快なやり方にちがいないと信じているところがあって、どんなに奇妙で滑稽で狂気じみているものにも、かならずいちどは付きあってみることにしていた。いくらか付きあってとても耐えられそうになければ黙って逃げたし、アリスがそのことで私を咎めたことはいちどもない。まだまだ吟味中のものもいくつかある。そうして今日の遊びはというと、これはふしぎと私を惹きつけるところがあって、すすんで楽しみに思うほど数少ないお気に入りのひとつだった。
 三度目になる。もし勝敗のある遊びなら勝敗はまだついていないし、勝利条件もわからない。私なりに思うところはあるものの、確かめるすべはなかった。なにしろ、いっさいのことばも身振りもつかってはいけないというのが、このゲームに課せられたただひとつのルールなのだ。どちらかが相手に何かを伝えるようなことをしてしまったら、遊びはそれで終わってしまうことになっている。なっているのだろう、と言わなければいけない。これは私の二回分の経験則だった。私はこの遊びについて、なにひとつアリスから聞いたことはない。
 かりに勝ち負けのない眩暈遊びのようなものだとしても、目的のわからないことにはやはりいくらか戸惑いを感じないこともない。深い霧の海を、小さないかだだけを頼りに、どこへ連れて行かれるとも知らず、波のまにまに漂っているような……けれどもこの遊びに身をひたしているうちは、ほんとうにいろいろなことが、いつもとまるでちがったように感じられて、その点アリスの世界にちょっとばかり踏み込むことができたような嬉しさを覚えた。ひとつところに居合わせて、差し向かいにお互いを観察しながら、けれどもいっさいの通信を交わさないというただそれだけで、おなじ夢の世界に生きているような錯覚を楽しむことができる。視界に黒塗りの輪郭があらわれて、世界がちょっと狭くなる。と、皮膚の輪郭がぼんやり厚みを帯びたようになって、自分のからだの境界線があやしくなる。その感覚がだんだん頭のほうにのぼってくる。やがて眼球が熱を帯びて奥のほうまでじわじわと熱くなってくると、視界に映る物の意味がみるみる後退していって、呼ばれ方の音や見え方の形象だけがたいせつになっていく。なにげなく目をとめただけのアリスの右手に、中指の曲がりが弓のしなりに見えて、放たれた矢は文を結んで白い海を越えていく、その描いたアーチは素敵な帽子になって、空色の猫に被せてやると、そいつが万華鏡カレイドスコープの中をぐるぐるぐるぐる歩きまわる、右回りにまわりながら左回りにすべり、前へ進みながら後ろへ下がる……。そんな白昼夢に、沈みかけてはもどり、沈みかけてはもどりしているうちに、いよいよわからなくなってくる、流れ流れてゆくこの音と映像のシークエンスは、私が見ているのか、それとも見せられている、、、、、、、のか? 見せられているとすれば、これこそこの遊びのなにか核心的なところにちがいない、けれどもあいにくその不可解につながりつづいていくモンタージュに人のことばを解し得ない私は、ただそれらに引きずり流されないよう神経という神経を張りめぐらして、なにもかもが溶け合いひっくり返り崩れてまたつながっていく、この不条理な世界に踏みとどまることに精いっぱいだった。ぐるぐるする。いつの間にか私のほうが万華鏡に取り込まれてしまったのだろうか。ああ、それなら、あの猫はきっと叱られるだろう……。
 夢は何十も何百も私の前を饒舌に過ぎていった。けれども時は無言で過ぎていく。額の、頬の、首筋の、胸元の、腕の、手の甲の、輻射熱さえ暖かい。からだじゅうが氷の一片と化してしまったみたいに。あたたかいことばのひとつも吹きかけられたら、溶けてなくなってしまいそうだ。アリスはいま私の何を見ている? 眸、顔、からだ、それとも心の中――? はっとして身を起すと、ちょうどアリスと目が合った。手が痺れていた。舌は口蓋に貼りついていて、剥がすとぴりっと痛みがあった。何か飲みたいと思った。そう思ったのが先か後かわからぬ間に、アリスはもう席を立って行く。その動きがふだんなら「なにか入れるわね」とでも言い添える素振りそのもので、私は失敗したと思った。口の動きに渇きのしぐさが出てしまったものにちがいない。あるいは無意識のうちに唾を飲み込んでいたかもしれない。遠い物音が騒音のように耳についた。まだ頭がもどらない。失敗した、失敗した。ぼんやりと、それだけを考えていた。なにか入れるのに、今日はいつもより時間がかかっていた。
 外は静かだった。風という風も今日の分はもう吹きつくしたというように森はひっそりとして、敷きつめた木の葉の一枚たりとも音をたてたりはしなかった。けれども外と内との沈黙に圧しつぶされまいとじっと身を固めていた硝子窓は、いま紅茶の注がれるかすかな湯の音に、ようやく緊張を解し得てほっとしているように見えた。それともそれは夕暮れの硝子に深く映り込んだ、ほかでもない私のことだったかもしれない。
 アールグレイが出された。惜しいなアリス、私はダージリンが飲みたかったぜ――ちょっとばかり負け惜しみらしいことを思う。舌の上を滑る風味と鼻に抜けてくる甘い香りは、いつもよりはずっと繊細に感じられたものの、もう私を溶かしてしまうような怖ろしいものには思えなかった。そこには語りそびれた数時間分のことばが、砂糖といっしょに溶かしこんであった。たしかにもう遊びは終わりだった。小さなアリス嬢はもうおやすみの時間だ。今日も楽しかったな、と私も何かに託して言いたかったけれど、なんとなくきまりが悪かった。それよりは今日という日にここに立ち寄ったことさえ、砂に刻んだ足跡のように忘れ去られてしまうよう、このままそっといなくなるのがせめてもの幕引きだろうと、私はいっそ紅茶の礼も挨拶の身振りもなしに音もなく、思いきりよく立ち去った。アリスは最後に私の背中を見ていただろうか。私はいちども振りかえらなかった。外はやっぱり静かだった。そうして紅葉を踏んで行くうちに、お菓子の家の冒険もしだいに幻のように思われてきた。
 幻を幻として振りかえって見ると、あらためて思うところがある。あれはやっぱりたんなる眩暈の遊びなんかじゃなかった。貝殻を耳にあてればその底に静寂しじまに代えて潮を聴く、そんな人の遥かな想像力を飼いならして、アリスはきっと、あの耳の痛くなるような沈黙のうちに、私に打ち寄せる感情の波音を聴き取ろうとしていたのだろう。砂に刺さった廃材や、いくたびも波に洗われすっかり丸くなった不動の岩を越えていくような大波だけでなく、そういうものにぶつかっては新しい波の下に飲まれて消えてゆく、私のことばにならない気持ちたちを探ろうとして――そういうものが感じられたら、きっと散乱した青のあの空の青さをしみじみと見るときのような、清々しい透明な心地がするのかもしれない。さぞ気持ちがいいだろう。けれどもその目論見は失敗したのだろうか? アリスは私のしぐさに出会うまで、なにひとつ行動を起こしはしなかった。それは結局のところ、表に打ち寄せることもない感情の小波は、いかな静寂のうちにも捉えようがなくて、気持ちを伝えるものはことばやしぐさよりほかにないということなのだろうか。しかしあたりまえといえばあたりまえのことだ。私は拍子ぬけしたようなほっとしたような、なんとも言い得ぬ気持ちで夜を過ごした。そうしてともかく明日はうんとおしゃべりな霧雨魔理沙でいようと、それだけ決めて、その日は枕に顔を埋めたのだった。
 翌日夕方ころ、さっそく舞いもどってみると、机の上に真新しい円柱型の黒い缶がひとつ、包みを解いたばかりと無造作に置いてあった。「いらっしゃい、魔理沙」と今日はいつものお出迎え、けれども私は、そのせっかくのやさしい声もぼんやりと夢の中で聞くように聞きなして、そうして私だけがまだ貝殻遊びに捕らわれたままのように、ただただ黙して立ちつくしていた。言葉がなかった。まったくもってかなわない。缶のおもてには銀文字でDarjeelingとあった。
(2008年10月24日 「東方創想話 作品集その61」にて公開)

Zip版あとがき

不思議な遊び。これほどの仲のふたりが、これほどの不思議なファンタジーに、これほど辛抱強く身をひたして、 ようやく伝わるほんの些細な気持ち。それもアリスなればこそ――というわけで、 私たちの知らないところでいろいろやっているであろうふたりの一日をこっそり覗き見ての一篇でした。