犬走新聞



 文々。新聞(ぶんぶんまるしんぶん)――射命丸文が編集・発行する新聞。取材、起稿、配達のすべてを射命丸文が個人で行う(*1)。印刷は業者へ委託している。
 天狗新聞の一として、xxxx年、妖怪の山で創刊。当初は主に関係者と一部の定期購読者にのみ配送される内輪新聞であったが、人気のため昨年度より市街での販売を開始した。発行は原則不定期。週に一部から二部を目安としており、その他の発行物は号外となる。朝刊、夕刊の別無し。発行部数は公称三千部。
 一定期間以上契約を更新した定期購読者について、射命丸文とある程度親しくなれば、購読料が無料になることがある(*2)。
*1:現在犬走椛がアシスタントを務めている。実質二人体制。
*2:ただし以降取材の対象としてスクープを狙われる恐れ有り。





 四月になってもまだこたつのてん、、と据えられた、小ぢんまりとした文の部屋で、犬走椛はどことなく違和感を感じていた。
 季節外れのこたつに対してではない。こんなとっくに御役御免でよさそうなものが、まだ億面もなく居座っているのは、春とはいえ夜になって冷え込んでくると、文は当然のようにそこへ横になるし、自分もやっぱりぬくぬくしたさについついもぐりこんでしまって、どちらも片付けようと言い出さないからであった。見るのも鬱陶しいくらい暑くならなければ仕舞わないという気がする。あるいは冬までこのままかもしれない。しかし、片付けるのが面倒だからというそれだけの理由で、鏡餅も雛人形も飾らないこの部屋にあっては、いずれにしても些細なことである。
 椛の察した不自然は、もっと緊急で、不吉なものだった。はるか頭上に隕石を感じるような、いてもたっても居られぬ得体の知れない不安。はじめ、その奇妙な気配は部屋全体に蔓延しているように思われた。が、よくよく注意してみると、どうやら文の振る舞いに、どこかぎこちないところがあるらしい、と気がついた。天板を指で叩いてみたり、髪を撫でつけてみたり、鼻のあたまをかいてみたり、そんなひとつひとつの仕草が、あまりにも緩慢で謙虚なところに、どうにも不自然なものがある。一見悠々と構えながら、ちょっとした視線のやりくりにも落ち付きを失って見えるあたりが、いかにも怪しかった。
 彼女はいま、何もしていない。本当に何もしていない、椛がしばらく本を読んでいたあいだもずっと、ただ水に浮いているみたいに、無限にぼうっとしていただけだ。うとうともせず、そわそわもせず。そうしてその文が、
「ねえ、もみじぃ」
 と伸び切った声で自分の名を呼んだとき、いよいよ嫌な予感は現実味を帯びて来たのだった。椛はその声に、抑揚に、聞き覚えのある気がした。
「なんでしょう」と訊くと、
「大変なんですよ」とめいっぱいの緩んだ笑顔で言う。「いや、こまったなあ」
 たしかに笑顔だ、けれどもこちらで瞳に涙を描き足してやれば、しっくりくるような淋しい笑顔である。訴えるような笑顔である。背筋が冷たくなった。既に思いあたることがひとつしかない。
「ちょっと待ってください、まさか」
「どうしようかなって、さっきからずうっと考えてたんですけど」
「いやですよ、見てください、もう七時をまわったんですよ、外もまっくらです。ぜったいにイヤですからね!」
「明日の一面、コラムのネタない」
「――ッ!」
 だん、と天板を叩きつける音。椛の手のひらが、われ知らず打ったのだった。部屋は一瞬、しん、、と静まり返った。埃が舞った。文の瞳にじわりと、ようやくその表情に似つかわしいものが浮かんだ。
 きりきりと痛む胃を抑えて、椛は猛省する――迂闊だった。そんなもの、とっくに出来上がっているものとばかり思っていた。この人が、何かに追い詰められれば追い詰められるほど、いよいよ余裕綽々のてい、、を見せる人だということを忘れていた。彼女にとって困り果て焦り狂うことは、即ち安楽な場所で必要以上にぬくぬくすることなのだ。内と外とで不精者と几帳面とを使い分ける、器用な彼女の不器用な一面である。
 もっと早くに、一言でも明日の記事について話題にしていれば――しかし既にあらゆる後悔は無用だった。椛は立って、上着から自分の手帳を繰り出した。
「ねえ、助けて椛、何かいいネタない?」
 思惑を吐き出した途端、泣きだしそうな顔になってすがってくる文を「ちょっと待っててください!」と鋭く窘めて、ばりばりと頁をめくり、未使用のネタを早口に並べ立てる。文は黙って聞いている、ゴーサインはすぐには出ない、こんな危急の時にあっても、なお紙面に耐え得るネタを吟味しているのだ。
「それ!」
 とようやく声がかかる。椛は手帳を閉じて、紐の巻き方もいい加減に、上着の隠しへ突っ込んだ。
「守矢神社です。行きますよ!」
 そうして、出発五分前まで寝坊した遠出の朝のように、大慌てで二人支度を済ませると、窓の開け放しになるのも気に留めず、うっすらとかかる月下に風の刺す、春の夜空へ猛スピードで飛び去って行ったのだった。





 結局、紙面はどうにか都合がついた。文々。新聞は辛くも面目を保つことができた。しかしこの日をきっかけに、椛はつくづく考えるようになった。考えながら、生活をするようになった。
(私がいなかったら、あの人はいったいどうするんだろう)
 こんなことを思って、街をぶらぶらする。割にいい陽気で明るいながら、人出はそれほど多くなく、道は歩きやすかった。やわらかい風に並木が揺れている。からからと遠くで車の音がする。行き交う人々の吐息さえ聞こえそうな、そんな静かな昼だった。
 緩やかな勾配の、広々とした坂道を行く。下りきったとき、ちょうど喉が渇いて、近くの喫茶店へ入ると、少しはがやがやと湧いていた。外よりはだいぶ活気がいい。
 レモンティーの冷たいのをひとつ、頼んだ。
(べつに、どうもしやしない)
 背にもたれて落ちつくと、このあいだからずっと引きずっている疑問の答えに、こう、自分ひとりですっかり答えを出してしまって、がっかりした。自分がいなかったらいなかったで、ひとりでちゃんとやるんだ、あの人は――何度未練がましく考えてみても、つまりそれだけのことであった。そうしてそう思うたびに、つい胸に迫るものがあった。
 出来る人はいつも上手に助けを求める。依存するのも才能である。彼ら彼女らは傍に助けてくれる人がいるのを好むけれど、必ずしも必要とはしない。誰もそこにいなければいないで、大体なんでも自分ひとりで切り抜けられるのだ。要領がいいと言えば仔細言い尽きる。
 そんな文の天才肌、思い通りに人を動かし何でもそつなく切り抜けていく、その類ない器量に、いつかは椛も憧れていたものだった。あんなふうになりたいと、切に願った日もあった。しかし、いざ自分がそんな要領の喰い物にされていると思うと、やはりなんだか面白くなかった。どんな関係どんな事情があるにせよ、走狗となってこき使われているという状況は、決して手放しに喜べるものであるはずがない。
(頼ってくれるのは、嬉しいけど)
 けれどもこう思って、まず嬉しいことを見つけてしまうと、どうしてもそれ以上後が続かないのだった。つくづく懐こい性格だ――そんなふうにわが身を憂えながら、運ばれてきた氷の多いグラスに、飲む気もなくストローを差して、からからと掻き混ぜていると、突然、
「椛!」
 と高い声に呼ばれた。驚いて仰ぐと、ぐっと顔のすぐ近くに、陽気な笑顔があった。お燐だった。
「や、偶然だね」
 ひらりと一度離れて立つ。下はいつもの深緑に、上は春らしく白い薄手を羽織って、さっぱりした装い。髪の毛は普段よりしゃんとして、リボンは明るい桜色、ちょっと外行きにめかしている。連れはいないらしい。そうして驚く椛をじっと迎えたまま、まるで春が人に化けて来たみたいに、眩しいくらいにこにこしている。
「こんにちは、奇遇ですね」と簡単に会釈すると、
「ここ、いいでしょ」と答えを待たずに向かいを取った。「おにーさん、あたいもこれ頂戴」
 そうして注文を済ませると、
「で、なにやさぐれてんの」
 時候の挨拶もなにもかも飛ばして出し抜けに、けれども顔は例の人あたりのよい笑顔ままで、遠慮なく尋ねて来たのだった。面と向かった寝耳に水もあるものだ、と椛は思った。その軽い口調にストンとやられて、なんだか自分の散々苦労した縫い針に、苦もなくさっと糸を通されたような苦い気分がした。
「そんなふうに見えます?」
「いや、わかんないけどさァ、椛が喫茶店で一人お茶してるなんて、シチュエーションがそう言ってるよ」
「考えごとです、考えごと」
「ほら、応対がそっけない」
「そうですか、いつものことじゃないですか」
「声にも艶がないもん。やっぱり、やさぐれてる」
 こう言われて、む、と椛は眉を寄せた。理屈と推測でなく、勘と印象で洞察してくる相手を誤魔化し切るのは難しいものだ。自分でも気付かないような変調を言われては、返す言葉がない。とはいえお燐にしてみれば、素直に思ったところを言っているだけで、問い詰めようとか何か聞き出そうとか、そういうつもりはさらさらないのだろう。そういうことに興味のないお燐である。
 意地を張り通しても仕方がない。
「じゃあ、相談にでも乗ってくれます?」
「もちろん」
 にっ、と嬉しい顔をする。けれどすぐに、ちょっと考え深い表情をして、
「でも、深い悩みゴトじゃなければね。あんまりシリアスなのは、あたいには荷が重いヤ」
 と言った。椛は、心配げにそう言う彼女が、なんだか可笑しかった。目許より、口許の変化が表情豊かだ、とも思った。
「たいしたことじゃありません」
「じゃあ聞いたげる」
 お燐のレモンティーが来た。聞きながら口をつけていてくれればよかったのに、彼女はそれをあっという間に飲み干してしまった。そうして残った大きな氷を口に含むと、テーブルへ腕を寝かせて、目線をじっと上目遣いに、椛の話に耳を傾けるらしい仕草をした。はやくはやく、と催促するような態度である。前置き通り、あまり深刻に聞く気はないらしい。





 椛は、先日のいきさつと、それに似た過去の事例をいくつか、出来るだけ手短に話した。そうして、近ごろは自分の集めたネタを下地に記事を書くことが多くなったこと、現地調査のほとんどは今や自分がやっているということ、文はといえば当事者とおしゃべりに明け暮れるばかり、ようやく自分が作業を終えた頃に切り上げて、まとめたデータを見せると、これとこれを書こうと選ぶ、選ばれたものを椛がせっせと文字にする、そんな次第で仕事分担をやっていること、けれど最後は必ず文に見せて推敲してもらわなければならないこと、等々、具体的なエピソードも交えつつ、なるべく愚痴めかないよう、つとめて公平に伝えた。少なくとも椛のつもりでは、そうした。
 お燐は時々相槌を挟んだり、氷を噛み砕いたり、うんうんと頷いたりしながら聞いていた。
 良くも悪くも、彼女は態度を隠すということをしない。だからあくびやよそ見がなければ、きっと退屈してはいないのだろうと取れる、またそうであれば何をどう話していても気が楽だった。語りが退屈に堕して来たかどうか、自分で見極めの難しい身の上話の相手としては、その点、お燐は格好であった。
 話が終始一貫している自信はなかった。何を訴えているのか、そう明確に定まっているわけでもなかったから、むしろ随分まわりくどいことを言ったかもしれない。働かない文への不平をかこっているのか、走狗の身分に安住している自分に嫌気が差したか、明日からの身の振り方をどうしていいかわからないのか――しかしただ現状に満足していないことだけは、なんとか伝えようと、言葉を探り探りもがいていると、
「つまりさ」
 と途中でお燐が切り込んだ。椛はそこで、一度喋るのをやめた。うまくこちらの心中をまとめてくれるかもしれない、と思った。あるいはそろそろ飽きてきただろうか――すると彼女は唐突に、
「文々。新聞を作ってるのはほとんど私だ!」
 と人も憚らぬ大声で、ほとんど叫ぶように言った。椛はぎょっとして、あたりをちらちら窺うと、幾人かがこちらを見ているらしい。文々。新聞を知っている人も中にいるかもしれないと思うと、実に気恥かしかった。はっとお燐を振り向くと、しかし彼女は、何をそんなに慌てることがあるとばかり、
「ってことでしょ」けろっとして言う。
「いえ、さすがに……そんなふうに言ったら、大袈裟になります」
「まあ、大袈裟でも小袈裟でもサ」
 お燐はぽりぽりと耳を掻いて、何か言いたそうに、じっと猫眼でこちらを見ると、にいっと悪戯そうに笑って、
「でも椛、それなら話はかんたんだよ、もう決まってるようなもん」と、我に名案ありという顔付きで言った。「独立しちゃえばいいんだよ」
「独立ですか」
 椛はつい苦い顔をした。
 それは誰かの下で働く者なら、きっと誰でも一度は思いを馳せるに違いない、魅力的で誘惑的で、素敵な響きの言葉だった。けれど言葉の上では甘美でも、現実の我が身の上に引き戻してみれば、向こう見ずで突拍子にしか思われぬ、空疎で虚ろなフレーズに過ぎない。独立、と噛んでみる、やはり苦い味がする。椛は戸惑って見せるよりほかに為す術を知らなかった。それでお燐が、
「いやいや、冗談じゃなくてね」と膨れるのを、慌てて宥めて、
「わかってますよ。確かにいまの私の悩みを解決するには、早道ですね」
 と取りつくろうと、
「それもそうだし、文ちゃんだってもしかしたら、そうして欲しいと思ってるかも」
 少し意外なことを言う。
「弟子はいつだって先生を超えていくものじゃン。先生の方だってそれを望んでるんだよ、かわいいかわいい愛弟子の一人発ちをさ」そういう理屈らしい。
「そうは言っても、なかなか難しいですよ」
「難しいと思ってるから難しいんじゃないかな。あたいには椛が一人でばりばり仕事してる様子、見えなくもないけど」
「そうですか。じゃあ、前向きに考えておきます」
「それ却下するときの文句じゃない? まじめに考えてみてよね」
 お燐はぴぴっと耳の先を揺らすと、肩が凝ったらしく首を左右に倒して回して、そのままぐるりと店内のメニューを流し見た。そうして、お会計の傍にでかでかと貼られた、甘そうなポスターに目を止めて、
「季節のデザート、いちごタルトかぁ、美味しそう。ねえ、あれも食べていいかな」
「なんで私に訊くんです?」
「だって、椛の奢りでしょ」
「えっ……」
「あれ、まさか人生の相談に乗ってあげたやさしいおねーさんに、お財布の紐を解かせるなんてことは、まさかまさか」
 と大仰に言う。その声もまたよく透るのだ。地声が大きいのである。椛はさっきのように人目を集めるのも嫌で、
「わかりました、わかりましたよ」と請け合った。「これきりにしてくださいね」
「あいあい。おにーさん、季節のデザート、あのいちごのやつ」
「あ、ふたつ」
 とっさに横から言い足すと、お燐は「ぷぷ」と声を出して笑った。べつにいいじゃないですか。そんな釈明めいた表情をしてみても、今更、照れが混じってしまって甲斐がない。しまいに椛も、つられて笑ってしまった。
 なんてことはない、いかにも喫茶店のタルトだった。店を出ると、少し風が出ていた。





「さとり様が言ってたなあ。絵とか彫刻とか、音楽とかもそうかな、まあ昔の先生っていうのは、よく代作させるために弟子を取ったんだって」
「代作ですか。それはやっぱり、自分が楽するためですよね」
「そ。でも代わりに作らせるってことは、作品は自分の名義で出すわけで、出来不出来は沽券にかかわってくるから、なんとかして弟子を自分並にしなきゃって、コツでも秘伝でも何でも、教え渋ったり隠し立てしたりしないで、手のうち全部教えるじゃン? そうすると弟子の方もめきめき成長して、師匠が引退する頃には百戦錬磨、みるみる頭角を現してくるってわけ」
「理に適ってますね。けれど今じゃゴーストライターも、すぐに糾弾の対象になりますから、あんまりそういうこともできないでしょう」
「だから『昔は』って」
「なるほど。もとは楽したさの副産物とはいえ、そういう有意義な教育も、知らず駆逐されたわけですか。仕事柄、ちょっと申し訳なく思いますね」
「あたいはべつに新聞が悪いとも思わないけど。それに、残ってるところには残ってるよ、そういうのも」
 お燐は両手を高く伸ばして、大あくびをした。椛は、そのあくびの消えていく宙を見ながら、
「そうかもしれません」とひかえめに答えた。
 いちばん暑い時間は過ぎた。通りすぎる店々の売り物を何とはなしに眺めながら、それぞれの家路に分かれるまで、だらだらと歩道の内側を歩いて行く。
「あ、猫だ」
 にゃーんとゆるい声がして、見ると黒い猫が一匹、悠々と車道の端を歩いている。お燐はすぐに視線を取られて、やあやあ、と旧友を見つけた調子で寄っていく。と、一目合わせてもう仲良くなったらしい、抱き上げて歩道に下ろすと、猫の方は行く道の変化などまるで気にした様子もなく、それまで通り、尻尾をゆらりゆらりと揺らしながら、王者然と歩いて行く。
 二人とも、しばらくそれに随いていった。いい角度で陽を受けて、毛並みも道もきらきらしている。時々、こちらを振り向いて、その爛とした赤い瞳を、きろりと輝かせる。それが黒によく合って印象的だ。
「猫って可愛いですよね」
 ふとそう洩らすと、
「なぁに、突然そんなこと言われても」
 とわざとらしく照れるので、
「違いますよ、あっちがですよ」先行く猫を目で追って、冷ややかに言うと、
「じゃあ、あたいは可愛くないとでも?」拗ねた振りをする。
「そうですね、猫になってくれれば、比較のしようもありますけど」
「やだやだ、あの猫べっぴんさんだもん、敵わないよ」
「そんなことないですよ」
「椛はいじわるだからねー」
「……そんなことないです」
 言って、嘘ばっかり、と自分で思う。お燐を見ると、嘘ばっかり、という顔をしている。二人とも正しい。けれども、タルトの仕返しをしてるのかどうかまでは、自分でもわからない。
「猫のお燐さんの方が、ちょっとだけ、可愛いんじゃないですか」
「お情け分だなァ」
 そんなことを言い合っていると、黒猫は突然何か気づいたようにたっと駆けだして、左手に見える角の店へひょいと潜り込んでしまった。その少し手前、こちら向きに据えられた立て看板には、明るみには少し目にきつい、原色のひまわりが描かれている。店先には道の方まで、ひとつひとつに値札のついた、色とりどりの花が溢れている。
「花屋さんですね」
「おうちかな」
 中を覗いて見ると、小さな子供が二三人、売り物の花をかざして猫を相手にふざけていた。それを店主らしい男が傍で見ていて、何か囃し立てている。花屋の主人に似合わぬ体格のいい、三十格好の男である。こちらと目が合うと、「いらっしゃい!」と張りのあるいい声を出したが、寄っていくつもりもなかったので、椛は「いえ」と口の中で中途半端な返事をして、
「行きましょうか」
 とお燐の袖を引くと、「ん」と従いかけたお燐の肩越しに、店の一角を埋め尽くす黄色の花を見た。オレンジに近い厚みのある黄色、それがどこか違和感のある姿に思われた。椛はふと興味を惹かれて、近寄って見てみると、
「シバザクラ……?」
 たしかに、ビニールポットの並んだカゴの前には、≪シバザクラ(黄)450円/pot≫とある。
「桜? 黄色いけど」とお燐のもっともな疑問に、
「れっきとしたシバザクラさ、お嬢ちゃん」店主が答えた。「桜じゃないがサクラって呼ぶくらいだ、桃赤紫が普通なんだが、黄色がないってわけじゃない。しかしちょっと珍しいだろう、どうだい」
「いいね、あったかくて」
 彼はその屈託ない答えに満足したらしく、
「そうだろう」嬉しがって、それが癖なのか、口元を隠すように頻りとあごを撫でている。
「どうやってこんなにたくさん」椛が訊くと、
「辛抱強く探すと、実は天然でも黄色は稀に出てるんだよ。で、こっちで土壌をうまく選んでな、光と水と温度と、それに湿度と風あたりも、うまく調整してやると、そいつが割にいい按配で出るようになる。あとは混植で加減を見ながら目当ての色に近づけて、毎年少しずつ数を増やすのさ」
「なかなか根気のいる仕事ですね」
「そうさ」
 『黄色いシバザクラ』――簡単なスケッチと、聞いた話をざっとメモして「四月三日、三丁目フラワーショップ店先」日付と場所を入れた。椛の手帳は大体こんな要領で出来上がっていく。そこに並べられるのは、どちらかといえば生活に端を発する些細な出来事ばかりである。一面の見出しを飾れるような大事件は、椛にかかれば千里眼で一目瞭然、たとえ家から一歩も出なくても、見落とすようなことはないのであって、こういう雑談まがいのちょっとした変わり話こそ、フィールドワークの積み重ねがモノを言う、貴重なコラムの種なのである。
「でさ、なんで黄色いのなんか、作ろうと思ったの」
 お燐が訊いた。椛は、そういえば、と思った。
「なんでってわけでもないが」
 しかし男は、こう言い淀んだだけで、また口に手をやった。さっきと同じだ。椛にはそれが、口元から思惑を読み取られるのを懸念する、無意識の所作のようにも見えた。
「まあ、珍しいからな」
 そうして、次の言葉をつなぐより早く、
「気に入ったなら記念にひとつ持っていきな」
 とシバザクラの一輪をちぎって寄越す。「ありがとう!」と、ちょっと耳にキンとくるような歓声を上げて、お燐は両手でそれを受ける――椛はそのやりとりが何となく作り物めいて気に喰わなかったけれど、黙っていた。
「次は何か買っていってくれよ」
 また元の朗らかな声で笑い飛ばすと、店主はそれでもう言うべきことはすべて言い終えてしまったというように、いくらかそそくさと、体格に似合わぬ動きで子供たちの方へ引返して行った。好き勝手に弄ばれていた猫は、いい加減玩具にされるのに飽きたらしく、男の帰りを見計らったように、のそのそと奥へ引っ込んで行く。子供たちはつまらなそうに散る。
 店を後にして、また歩き出した。もう先導はいない。お燐はもらった花を、茎をつまんで指先でくるくる回しながら、
「どうして黄色になんてしようと思ったんだろう」と繰り返した。
「言いたくなさそうでしたね」
「照れてるようにも見えた。私にこれくれたのだって、誤魔化したんだよねぇ」
「そう言ったら悪いでしょう」
「そうかも。でも、だったら教えてくれてもいいじゃん、後ろめたいことがあるわけでもないだろうし」
「個人的なことかもしれません。いずれ説明しにくい事情か、特に話になるほどの理由があるわけじゃなかったんでしょう」
「説明しにくいって、たとえば」
「偶然の成り行きだったり、込み入った事情だったり、人に言いにくいことだったり……」
「そうなのかな、気になるなあ」
 お燐は、とうとう別れる直前までそんなことを言っていた。





 布団の中で十二時を聞いた。どうにも寝付けなかった。お燐の声と自分の声が頭の中でぐるぐると混ざり合って、それが揃って独立々々と騒ぎ立てるのだった。眠らなければと思うほど目が冴えるのはまだ尋常のことながら、その考えに頭の真ん中が締め付けられるようで、窮屈な感覚が熱湯みたいに脊髄を滴り落ちてくる。胸が熱くなる、炙られたみたいに、息が焼けつく、喉が渇く、眉間がずきずきする、眼は爛々と天井を見ている……。たまらず飛び起きると、しかし身体は何ともない、すぐに冷え込むのである。ただ耳の裏にじっとりと、そこだけ汗腺が壊れてしまったみたいに、夥しい嫌な汗をかいていた。
(こんなにひどいのは久しぶりだ)
 興奮を鎮めに屋外へ出る。板梯子を降りて土を踏むと、宵入りにぱらっと来たのだろうか、沈むようにやわらかい。風は出ていたけれど、案外涼しくなくて、たいした慰めにはならなかった。ただ空は澄んでいる。黒々に、銀を散らしたような星が出て、十日ばかりの絵にかいたような月、いずれ遮りそうな薄雲が、山のあたりに群がっている。
(ちょっと歩こう)
 急な斜面に拵えた我が家を後に、緩い斜面を町の方へ下っていく。どこで引き返そうか、それとも朝までぶらぶらしていようか……りりりりと虫の音がこだまする、草を踏むにもなるべく平地を道に選んで、敷石の道路を目安に、緩やかに下って、遠く町の明るい方へ……サアともシャアともつかぬ軽い音は、息の長いのが流れの響き、短いのが葉のざわめきだろう。燈を含んだような眼下の一角、川の向こうはひっそりと寝静まっている、誂えたような夜……相変わらず身節は重い。けれど頭の方は、闇夜の暗がりを逍遥しているだけで、いくらか冷静になってくる。
 どうやら転びかけて、アッと思うのが良いらしい。歩きつけた地形とはいえ、こう真っ暗の中を歩くとなると危ないこともままある、それで本能的に注意力を取り戻すように出来ているのだろう。散った魂がきゅっと脳の中心へ固まってくるようだ。もみじ、もみじと自分を呼ぶ人の声が、お燐のものも文のものも、今は冷静に、頭の中ではっきり聞かれるようになった。独立の声も、せき立てるような調子は、もう鳴りをひそめている。自分から復唱して理性に照らすことができるくらい、落ち付いたものになっていて、ほっと息をつく。
(独立、か)
 そんなことあるわけがない、と思っている自分がいる。一方で、そんなことに憧れている自分がいる。どちらにも明確な理由がないだけに、ふわふわと浮いたようなジレンマに苦しんでいるのが、今の自分の精神だ、と思った。けれどジレンマの方にも問題がある、とも思う。現状の維持と打破の選択肢が、どちらにもあまりに混じり気がなさすぎて、なかば中っているのだ。過激さを好かない自分の性格である。
 もっと中庸寄りにできないものだろうか。何もしないことだけが現状維持じゃないし、一方、この身に悪い葛藤を余儀なくさせる独立という悩ましい選択の方も、もう少し波瀾のない、穏やかなものに据え変える手続きがあるのでは――そんな気がした。
(いきなり一人でやらなくてもいいんだ。何か……)
 一里近く歩いてきた。ここまでは誰にも会う気遣いはなかったが、もう五六町ほど東へ下れば郊外に出る。同じような境遇の散歩者に出くわさないとも限らない。そのときはお互い、知らぬ顔ですれ違えば済むことかもしれない、けれど今は出来れば誰にも会いたくなかった。
(川まで行って、帰ろうかな)
 それで出くわすのが、こんな夜更けに川をこちらへ、渡ってくるほどの酔狂者なら仕方ない、と割り切って。なにより、
(水に吹かれて、すっとしたい……)
 だいぶ疲れてきた。夜歩きは知らぬ間に足に疲労を溜める。川までだって歩けるかどうか、けれど帰りは飛んで戻ればいいのだから、行けるところまで試しに行ってみればいいか――と思って、ハッとした。
(試しに――?)
 近くにちょうどいい木を見つけて、休みに行くと、夜行性の何か小さな動物が、フイと暗闇に去って行った。その後へ座り込む。しっとりとした幹に背をもたせて、前方の山を空を眺めるともなく眺めながら、たったいまの思いつきに真剣にあたってみた。考えに考え抜いた――着想の是非から意義から段取りまで、何一つ不自然なところのないように。どんな言葉で持ちかけるか、認めてもらえるだろうか、嫌な気分にさせないだろうか、どうしてと聞かれたら何と答えよう、やりきることは出来るのか、その後で待っている決断は。何度も何度も頭の中でシミュレーションを重ねて――そうして正面から目の眩むような朝の陽が差したとき、くらっと来て、カアン、カアンと規則的な鐘の音にハッと意識を掴まれた。はじめて明け方まで考え続けていたことに気がついたのだった。……。





 気付けば布団で、昼の十二時を聞いていた。帰りのことは何も覚えていない。いつまで外にいたかもわからない。ただ木の根で出した結論だけ、しっかりと記憶に刻んであった。そうして文を訪ねるや、さっそく椛の持ちかけた提案が、
「一か月、きっちり一か月だけ、私ひとりに、文々。新聞を任せてもらえないでしょうか」
 つまりこれであった。独立のための試金石、いわばお試し期間である。
「それでもし売り上げを上げられたら、私に、独立させてください」
 自分でも生意気な言い分とは思ったけれど、自身が納得するためにも、文を納得させるためにも、これは妥当な提案に違いなかった。
「ははあ」
 文は神妙とは言えないまでも、きょとんとした様子で聞いていたが、答えを求められる段になると、「そうですねえ」とちょっと寂しそうな目つきをした、それが珍しかった。しかし――と椛は思う――今のは何を憂える目つきだっただろう?
「売り上げを落とさなかったら、でいいですよ」
 やがて、文はこんな風に許しを出して、
「とうとう椛もそんな年頃ですか」からから笑った。
「約束します、必ずやってみせます」
 椛は誠心、誓いを立てる。いよいよ引き返すことはできないと、気が引き締まる。
「ところで、一か月って言いましたね」
「はい」
「じゃあ私はそのあいだ、身を隠していましょうか」
「そんな、必要ありません」
「いえ、私の好きで」と文はふいにこたつを立った。「うまくいっているときに水を差したくありませんし、思い通りに行かなかったときも、途中であきらめて欲しくありません。居たら、ほら、横から口も挟みたくなるし、助け舟も出したくなっちゃうじゃないですか。私の性分、知らないわけじゃないでしょう? だからきっかり一か月、バカンスを頂きます。ちょうど取材の予定も何も、入ってないんですよね」
「そういうことなら、構いませんけど……」
「五月の頭には帰ります」
 そうして楽しそうに物置から、バッグやら何やら引きずり出してくる。この行動の速さが特筆だ、といつも椛は思う。ただし毀誉半々である。思い立ったが吉日を地で行くのもいいが、藪から棒の頓狂者と言われても、釈明の余地はないだろう。
 入り用の大きめのやつはすっかり埃を被っていた。それを窓から外へ突き出しハンガーで叩いて、風に煙を流しつつ、
「ちょうどマヨヒガの地図を作りたいと思ってたんです。どっぷり迷い込まないと作れませんから、こういう機会じゃないとなかなか難しいですし」さらりと難事業を言ってのける。
「あると便利ですね、あのあたりは私の千里眼も効きませんし、取材も難しいところです。ただ地図なんて作れますか、いろいろ面倒があるんじゃ」
「面倒くらいならいいですが、そもそも作れないということもありますね。日に日に地形が変わらない保証もないわけで」
「八雲家も怖いですよ」
「猫は可愛くないですか」
 椛はふと、昨日のお燐とのやりとりを思い出した。
「可愛いですね」と今度は素直に答えたから、やっぱりお燐にはいじわるだったに違いない。「でも、保護者が怖いから、同じことです」
「そのまた保護者には、出来ればエンカウントしたくないものですねぇ」
「だからやっぱり最初から関わらないことですよ」
 こう後ろ盾へ後ろ盾へと繋がっていくのが、言っていてなんだか可笑しかった。
「ところで次の文々。新聞、発行はいつにしましょう」
「それも椛にお任せしますよ、今までペースをできるだけ目安に」
「とりあえず、明後日くらいですか」
「順当ですね」
 三時になって、ちゃっかりおやつだけは摂取すると、そろそろ出発と、床にならべた持ち物を整理しはじめる。一か月分とあって、なかなかぎゅうぎゅう詰めだ。
「さぁ出かけよう――」と文は節付きに口ずさんで、「知ってますか、『君を乗せて』」
「知ってますよ、有名です」
「実に名曲ですね。あの歌詞には、旅に必要なものがみんな揃ってるんですよ」
「そうでしたっけ」椛は歌詞の続きを、声を出さずになぞってみる。
「ええ。ひと切れのパンは食糧でしょう、もっとも大切な体力です。ナイフ、ランプは旅を助ける必要最低限の道具。熱い想いは言うまでもなくモチベーション、眼差しは行くべき方向を見定める心のコンパスです。本当に、父さんと母さんは本当にいいものを遺してくれましたよね。歌い終われば準備万端ってわけです、さあ出来た」
 あっけに取られる椛をよそに、支度を終えた文は、抱えてみれば椛より重いかもしれぬ、デスマーチの責め荷かと思うほど巨大なリュックをよいしょと背負って、
「箪笥の鍵は鏡台の抽斗、緑茶は戸棚の――全部わかってますよね。必要なものがあれば、適当に持ち込んで構いません。留守は任せますよ」
 本当に家を預ける気でいる。なかなかどうして、この飄逸に付き合うのは並大抵のことではない。慣れた椛でもまだまだ戸惑わされるばかりである。「はい……」とこちらのほうが旅から帰ったような、疲れた受け答え。
 おまけに、
「一か月経っても帰らなかったら、ちゃんと探しに来てくださいね」
 家を出しなに、そんなことを言うので、
「安心してください。そうなったら一面にでっかく、尋ね人で出して差し上げます」
 至って従順な笑顔で、仕返しらしいことを言った。





「先輩、凄いですね、この予定表」
「いやはや、今月はとみに多忙になりました。椛がアシスタントに来てくれて助かりますよ。随分楽になるでしょうね」
「頑張ります。――いつもはこんなにたくさん、一人で捌けるものなんですか」
「為せば成ります。もっとも、それなりに要領が問われるところではありますが」
「ダブルブッキングが日常茶飯事じゃないですか。こんなにやることがあったら、私じゃ何から手をつけていいかわかりませんよ」
「マルチタスクはね、慣れです。数こなせばそのうち適当な配置も見えてくるものです」
「やっぱり、配置は重要ですか」
「もちろん。仕事がキツキツのときは、こっちはもう全力で走るより他にないわけですから、出来るか出来ないかは偏に仕事の配置に依ってくるわけで。どんなふうに並べようが総量が同じなら結果は変わらないなんて考えは、エディターシップの精神に欠けると言わざるを得ませんね。とても新聞記者向きじゃありません」
「心得て置きます」
「じゃあ椛、たとえばどういうアレンジがあるか、わかりますか」
「やるべきことを優先順位で並べて、上から順にこなしていく、とか。常套手段ですよね。ただ、先輩のは、そうは見えませんが……どちらかというと逆な気がします」
「いいところに気が付きました。プライオリティーで押していくというのも安全な手筈には違いありませんが、効率を重視するなら、些末事から順にやっていくという定石もあるんですよ。椛、理数系はいけますか」
「ちょっと苦手です」
「じゃあ式は無しで、簡単に言いましょう。仕事のパフォーマンスは、おおよそ傾けた時間と集中力の関数です。掛け算としてもそんなに誤らないでしょう。これはよくある単純化ですね」
「わかります」
「ところがこの集中力というやつは、ありていに言って、締切までの残存時間の反比例を描くんですよ。少なくとも一定値じゃありません、それに――ここがなにより重要ですが――こちらが自由に融通を付けられるものでもないのです」
「大切だとわかってても、ですか」
「本人の資質に依るところも大きいですが、大抵はわかってても、ですよ。だからこそ、仕事ごとに要求される集中力の多寡をちゃんと見極めて、配分を最適化することが、パフォーマンスの最大化につながるわけです。そして実際には、より意識の専心が必要になる仕事ほど、締切ぎりぎりにやったほうがいいということになる」
「楽なことから片付けていく、というのとは違いますか」
「似て非なりですね、何も考えずにできる事務処理からやっていくといったほうが正しいかもしれません。何にせよ、クリティカルな問題に当るときは、追いこまれている方がベターってことです。世の中、締切に追われている人間が多いのは、ちゃんと訳があってのことなんですよ。人間、やらなくていいことはやる気がしません、やらなきゃまずいときだけ、集中できるんです。ちゃっかりしたもんです。一夜漬けの跳梁する所以ですね」
「ある意味、背水の陣ですね」
「そう見れば、夏休みの宿題を最終日にやるのは、自堕落ということではなくて、効率最大化の最適解ということになります。逆に言えば、計画的にやってる人は、リスクヘッジはできてるかもしれませんが、私から言わせれば非効率で無駄が多い、と」
「……私、宿題は毎日ちゃんとやってました」
「知ってて言いました」
「ひどいです」
「それが悪いってことではないんですよ。さっきも言ったとおり、危険は回避できてます。安全安心という意味では、そういう真面目なやり方に越したことはないわけで……いや、やっぱり私のところに椛が来てくれたのは、よかった。何事もバランスよくが鉄則ですからね。私は当然、九月一日の明け方に片付けていたタチですから」
「それなら私も、先輩も、自分のやり方は尊重した方がいいんでしょうか」
「どこまで取り入れるかも最適化のうちでしょう。ひとついい教訓を授けます、『何事も話半分に聞いておけ』。これの意味するところがわかりますか? 記者たるもの、ひとつの説を頭からどっぷり信じるのは止した方がいいに違いありませんが、逆にどんなヨタ話でも、半分は必ず聞いておきなさいってことです。必要とあらばいつでもモノにできるように。大切ですよ、ぜひ遵守してください」
「それも話半分で聞いた方が……?」
「さすが、飲みこみがいい」
「いたた、それなら耳を引っ張らないでください!――あ、先輩、そろそろ時間です」
「そうですね、行きましょうか。到着まで五分見て、ああ、少し急ぎませんと……いやあ、それにしても今日のお宅は凄い大邸宅ですよ。見るもの聞くものブルジョア味を帯びざるはなしというところで、それでいて先方の物腰も丁寧で感じがいいと来てますから、文句なしです。夕食ご馳走になったりして」
「先輩、いつもそんなこと考えてるんですか」
「まさか」
「ですよね、すみません」
「お茶菓子もさぞいいものが出るでしょうね、楽しみです。さ、行きましょう。カメラ、ペン、手帳、持ちました? ハンカチ忘れても、三種の神器は忘れちゃいけません。常日頃から肌身離さず持ち歩いて、メンテナンスも怠らないように――」





 夢を見ていた。懐かしい、アシスタントになりたての頃のやりとりだ。
 歯を磨きながら、ぼんやりと反芻した。目を覚ました瞬間に、細かいところはほとんど忘れてしまったけれど、逃げていく印象の欠片を拾い集めてみると、どうもいくらか自分に都合よく脚色されていたように思う。現実のあの頃と何が違ったか、はっきりとはわからない、ただ多分、自分は夢のそれほど頼りにされていなかったのではなかったか――たしかに文はなんでも一人でやっていた。自分はお茶を汲んだり掃除をしたり、駆け出しの書生の如く、雑事のお手伝いをしていたに過ぎない。取材に連れて行って貰ったのも、もう少し後のことだったと思う。「さ、行きましょう」なんていうのは、こちらで勝手に拵えたストーリーだろう。ただ「椛が来てくれてよかった」――これだけは言われたような気がする。それとも、それも思い出の改竄だろうか。あまりそうは思いたくない。
 冷たい水で顔を洗うと、しかしそういうモヤモヤも、一気に吹き飛んだ。そうして、いよいよ今日からたった一人の仕事が始まるんだ、と胸が高鳴る。まだ下地さえない明日の記事は、他でもない、自分が、一人で仕立てあげるのだ。事件が、話題が、言葉が、紙面が、読者が、皆揃って自分の手を待っている。
(何でも一人でやるんだ。あの頃の文さんみたいに)
 道具はほとんど揃っていた。一か月程度仕事を続けるにはまったく不足ない。椛が自宅から文の仕事場へ持ち込んだのは、夜を過ごすための寝巻や寝具――普段の泊まりには備え付けを借りているが、一か月となれば自前の方が気安い――と、下着と洋服、若干の辞書類、保存の効かぬ食料品、それからお気に入りのレコードくらいのものであった。
(食べ物は、手をつけちゃっていいのかな)
 逡巡したが、腐らせる手もない。後で買い足せるようなものは、古い方から消化することにして、ありあわせの食材で朝食を取ると、すぐに仕事に取り掛かった。机周りの掃除、ネタの選定、一面の確保、確定した記事の執筆……仕事の配置がなにより大切だ……夢がアラートしてくれたことを活かしながら、いつもより慎重に考える。
(まずは一面確保、それから……)
 椛は、新聞は芸術と技術の相の子だと考えていた。常日頃、文の仕事を見るたびにそう思った。創造的なところなどないように見えて、その実そうではない。たしかに事件は出来上がっている、けれどもそれをどんな切り口で伝えるか、その選択に芸術家の眼が求められる、ちょうど焼き立ての食パンが一斤、でんと放り出されたようなものだ。それをどうやって人々に切り分けるかは、自分たちの手腕にかかっているのである。そうして今度はナイフの入れ方に、職人の慎重さと手腕が求められることになるだろう。
 収集し、分析し、編集する。この一連の作業すべてが新聞作りである。千里眼と目利きと職人技とに、すべて一流を求められる、極めて高度な仕事なのだ。
 長年の文との生活に、計り知れない影響を受けてきたとはいえ、これはもとより椛の持論であった。そうして当の仕事を通じて、それが正しいと信じられるだけの実感を得てきたのである。信念に基づく行動はまっすぐだ。椛は訪ね、飛びまわり、見聞きし、集め、書きあげていく。全てが精力的で淀みない。

『山林道に鬼の足跡? 警戒体制、一時通行中止に』
 冥界山林道に正体不明の足跡が発見された。山頂周辺から距離およそ三町にわたって続く巨大な足跡は、麓付近の沼沢へ消えており、主の消息は不明。窪みの深さから、地元自警団は山岳から鬼が迷い込んだものと見ており、近隣住民に警戒を呼び掛けている。山林道は現在通行中止となっており、……。(写真10:160x200、白黒)
『永遠亭、春の新薬販売開始。夏風邪に向けて』
 四月十二日、永遠亭は春の新薬ならびに栄養剤の一般販売を開始した。共に冬季の改良版であり、特に一日一錠で必要なビタミン、鉄分等を補給できる新型栄養剤は、副作用もなく夏風邪の予防に最適とのこと。一部学校では生徒に無料配布する方針で、……。(表1)
『黄色い芝桜、花屋の店先に明るく』
 街角に黄色く盛るのは、三丁目のフラワーショップ「ひまわり」のシバザクラ(フロックス・ストロニフェラ)。混植により黄色い花を咲かせることに成功した。紫や白に混じって、春の路面を暖かく彩っている。……。(写真27:120x140、カラー)(別枠:フロックス・ストロニフェラ解説)
『……』

 出来た、と小さく熱い息混じりの声を出して、作業を終えたとき、捲くった腕にてんとう虫の一匹這っているのに、初めて気付いた。椛はなんだかその七星が、いっぱしの戦友のように思えた。おつかれさま、と声をかけると、肩の方へよじてくる、それがおつかれさま、と返してくれたように見える。――何にやにやしてるんですか? 文が居たら、笑われているだろう。
 指に乗せて、窓からそっと草の葉に降ろしてやった。





 果たして、椛の初版は滞りなく出た。その感触があまりにもあっけなくて、はじめはこんなものかと、肩すかしを喰らったような気分でいたものの、それから数日、自分でも驚くほど手際よく仕事は進んで、とうとう何のトラブルも生じなかった。文の手伝いをしているような、いつも通りの平常運転で、すべては順調に運んだのである。
 唯一戸惑ったことと言えば、「こんにちは、文々。新聞です」と名乗るのが、はじめのうちはやや気恥かしかったくらいで――こればかりはいつでも文の役目だった――しかしそれも、すぐに慣れてしまった。
 馴染みは一人で訪ねて行くと、「文ちゃんは?」「今日は一人?」と決まって訊いた。それに、
「出張でいないんです。今は代わりに私が」いつも同じように答えていると、
「えらいねえ」
 こんなふうに言う人もいる。それが、半人前扱いされているような気もする一方で、やっぱり素直に嬉しかった。スムーズに取材を終えて、そういう和やかな談笑に興じていると、上手くやっている、そんな実感を、いやが上にも増してくれる。取材相手との摩擦の無さという点では、案外、二人のとき以上かもしれない。
 ある日、森の葉の一枚さえかさりとも鳴らぬ、喩えようもなく静かな朝凪に、守谷神社を訪ねたときのことだった。早苗相手に取材のさなか、例の文の出張やりとりの後で、
「お饅頭がありますよ、いかがです」
 と誘われて、座敷にあがった。いつものように、ずかずかと強引に入り込むでもなく、向こうから招かれたことに、少し得意になる。
「このあいだは夜分遅くにすみませんでした」
「いいえ。うちはあのお二方も夜は遅い方ですから。あの日もあれでまだまだ、宵の口で」
「それじゃあ早苗さんも、あの後……?」
「したたか飲まされました。生身にはホントに、つらい話」
「よくわかります、私もあんまり、強くなくて」
「そちらも、お相手は大変そうね」
 などと話していた。
 やがて急須も空いた頃、早苗は肘を机に、姿勢を柔らかく崩して、いかにも心情を吐露するような、くつろいだ様子で、
「でも、椛ちゃんが来るようになってから、とっても話しやすくなったわ」と言った。
 身近な人の謂いだけに、椛にとって、この言葉はかけがえなく嬉しかった。胸に白湯の沁みわたるように、じんと来る。やっぱり私は記者に向いてるんだ、文さんよりいい仕事をしているのかもしれない――心密かに、そんなふうに思うと、嬉しくて仕方がなかった。そのときの早苗の綻んだ表情も鏡、いったいどれだけご機嫌だったか知れない。
「ありがとうございます」
 疑うべくもない、独立のための試験、その第一歩は、希望に満ちた大成功だった。着地は十点満点だ。今や厚雲の張る雨の日さえ、夏より明るく感じられる。自らの運命を上手に廻しているという、上等な音楽を指揮しているような心地よさ。幸福一途――そんなだから、体の方もまるで疲れを知らなかった。
 東へ西へ、山へ町へ。いろんな人と喋っては、新たに親しくなった。何かと人に好かれやすい自分の性質を、今日ほどありがたく思ったことはない。また来てねと言われることの嬉しさといったら、何物にも代えがたい――。ところで、この頑張りがどこから来ているか、ふと自分の胸に問いかけてみると、「なんとしても文さんの期待に応えたい」というような気持ちが確乎として強くある、それがなんだか逆説めいて可笑しかった。そうだ、文には並々ならずお世話になった。きっとこれからもお世話になるだろう。その恩に報いるためにも、今度こそ自分は先輩を超えていかなければならない。一人前として、誇らしく胸を張って、立派に一人立ちするのだ。
(文さん。私、ちゃんとやれてます)
 第二号、つづいて第三号を出した。そのうちにも、あちこち駆けずり回った恩恵で、手帳の肥やしは増える一方、いくら汲んでも尽きせぬ泉と頼もしい。人間関係のトラブルなんて、影さえ踏んだ気配もない。この好調をひっくり返してしまうような大事件の予感さえ、欠片も感じられなくて、進路の見晴らしは抜群だった。
(このまま一か月。あっという間だ……)
 充実していた。何もかもが楽しかった、どんなに遠い取材でも、分刻みの移動でも、執筆に表現に延々一夜悩んでも。三食さえ常と変わって感じられる。忙しない朝に掻き込む鮭ご飯が、へとへとの夜に味わう玉子焼きが、こんなにおいしいなんて知らなかった。食は進む、ネタは尽きない、不思議なくらいやる気は湧いてくる……オールグリーンだ。あとは全力で走りつづけるだけだ、それでこの一月の冒険は、間違いなく成功裡に終わる。
「こんにちは、文々。新聞です――!」
 原稿の進捗が速いある日、暇を作って、お燐に手紙を書くことにした。思えば彼女の一言から始まったことだ、近況報告も礼儀だろう――と、半分以上建前と気づきながら、それでも筆を執る。
 こんな舞い上がった気分で書き出せば、例外なく手紙は自分よがりになる、と椛は知っている。しかしそこは物書き腕の見せ所と、意を奮って、なるべく筆を抑えよう、抑えようと努めながら、文に一か月を請うたあの日から、つらつらと、平静のつもりで書きだすと、あれも書きたいこれも書きたいで、削れるところも見つからず、よく仕上がった記事のダイジェストやら、相手方に感心された取材のことやら、千里眼が捉えた偶然の一コマやら、例の早苗とのやりとりまで、結局は事細かに書いて、ずらりと長くなった手紙を提げると、あんまり縦に長くて、ちょっと恥ずかしくなる。
『長々書きましたが、直にお話したいこともたくさんあります。今週末に以前の喫茶店でまた会いませんか。お返事お待ちしています』
 こう結んで封をした。それを、明日の朝出のついでに出そうと、何度も頭の中で繰り返しつつ、しんしんと迫ってくる夜に、放り出された厚い封筒を、ただ見つめているのに居た堪れない。
(思い立ったが、吉日――)
 とうとう待ち切れず、矢のように飛び出して、暮れの中、町のポストへ投函に行ったのだった。


10


 手紙読んだよ、わざわざありがとう。そんなことしてたんだ、大胆なこと言ったもんだね、でも結果オーライならよかった。さすが椛! それで、週末だけど、買い物がてら出てってもいいよ。昼過ぎに会おうか。お空も一緒だけど、他で待たせててもいいし。せっかく椛の方から親切に、また奢ってくれるって言うんだから(そうでしょ?)、行かない手はないね。楽しみにしてる。それじゃあ土曜日。
 P.S. そうそう、場所、せっかくだから今度は向かいのお店にしようよ。あそこもなかなか評判だから。

 日は難なく過ぎて、土曜日になった。文との約束からちょうど十日目。雨催いながら降りはせず、雲ばかり出て暗い昼だった。友達との歓談に褒められた陽気とは言えないけれど、涼しさは外歩きにちょうどいい、と前向きに考える。お燐と会う前に買っておきたいものがあったので、時間より早めに町へ出てきた。
「八百円になります。――ありがとうございました」
 その買い物と言うのが、たった今支払を済ませて、椛の大事そうに抱える月評の雑誌である。種々雑多な世間のできごとを集めてまとめた評論集のようなもので、文芸時評から美容健康、商人経済から民話紹介まで、俗と学とのいいとこ取りをしたような、少しお堅い「なんでも屋」だ。椛は、近頃の世間に自分の知らぬ側面もあるかと思うと、一応は把握しておきたくて、定期的に読んでいた。一冊で流行にキャッチアップできるのは、なんにせよお手軽である。
 文々。新聞も、刊行デビュー時のみならず、幾度か取り上げられたことがあった。肩を持つものばかりではないが、批判も含め、関連ナンバーは全て、文が切り抜いて保存しているはずだ。たまにスクラップブックを引っ張りだしてきては、懐かしんだりする。他の誰にも撮れなかった決定的瞬間の写真、その夥しい引用、あるいはコラムの紹介……ぱらぱらとやれば、そこに思い出の種がいくらでも見つかるのは、そっくりそのまま、やってきたことの充実ぶりだろう。
 椛はいつも、まだ見ぬ自分の新聞の、切り抜きを散りばめたスクラップブックを思い描く。茶色い表紙、刺繍の入ったB3版の、ぱりっとした糊紙で、五十枚綴り……今また思い描いてみると、それがいつにもまして、重さも大きさもある、リアルな物体に感じられて、どきっとする。手を伸ばせば触れられる気さえする。もうすぐ現実のものになるという確信が、そうさせるに違いない。めくってみれば、まだまっさらな一ページ目。最初にそこへ、何を貼ることになるだろう。
(名前だ)
 と椛は思った。自分の、新聞の名前。そうだ、最初の一号、その一面右上に「犬走新聞」と刷られたところを、きっと切り抜いて貼ろう……。
 待ち合わせの喫茶店へ入った。
 十五分は早い、が、つい赤のおさげを探してしまう。もちろん姿は見当たらない。
「お一人様ですか」
「いえ、後で一人来ます」
「かしこまりました」
 席について、本の封は解かぬまま、しばらく周りを見ていた。中くらいの混み具合、誰も彼も、語り合ったり本を繰ったり勉強したりで、回転率は悪そうだ。かくいう自分もそんな一客と思うと、ちょっと申し訳ない。このままお冷で待つのはやめにして、紅茶をストレートで頼んだ。
 かちゃかちゃと食器を運ぶ音、給仕の歩く硬い足音、そうして人声と、がやがや言う店内のどこかから、ふいに「天狗……」と聞こえた。ハッとして、音の感触を思い出すと、どうやら奥の角に陣取った一団から飛び出したものらしい。周りに人はいないので、間違いない。椛は、そこへ耳の照準を合わせてみた。椛の卓越した五感センスと、その驚異の志向性を持ってすれば、茶店の一隅から選んで会話を聞き取るくらいなんでもない。
「つまり客観にも度が過ぎるという、それだけのことだろうよ」
「それだけだって? ジャーナリズムは鏡でも拡声器でもない。客観的描写なんて、お笑い草さ。社会的娯楽だよ、娯楽は芝居さ、見物がいなきゃ成り立たん」
「わかるよ。僕も昔は、そこをよくわきまえていると感心したもんだが……」
「いよいよ気でも触れたか」
「まさか」
 喧々囂々、やっているのは学生連らしい。三人、テーブルにつまみを囲んで、難しい顔をしたり、砕けた笑いを飛ばしたりして、一喜一憂しながら、議論に熱中している。雰囲気は真剣そのものなのに、表情や仕草をころころ変えるのが、いかにも気心知れた同士のやりとりで面白い。が、次第に気がかりなほど熱を帯びてくると、喧嘩になるんじゃないかとはたではらはらしてくる。なにより、天狗だ、ジャーナリズムだと、どうも自分にまるで関係ないこととは思われない。
「とにかく、しばらくは様子見だ」
「あんな調子じゃ、俺はもう見限りたい」
「そこまでかい。あるかなしかの差じゃないか……」
「しかし決定的さ。そこを微差と見るところが、お前、三流だよ」
「そこは同感だ。極端言えば、あれなら俺にも書ける」
「そりゃあ言いすぎじゃないか。これだから文士気取りは」
「気取ってるもんか。第一、お互いさまだろう」
「だからやはり、一介の天狗新聞が山から出張ってきたのがそもそもだな」
「またお得意のそもそも論か。やめとけ、持ち味の薄くなったのはもっともだが、何が原因かわからん。体調がすぐれないこともある……」
「あるいは人が変わったか」
「なんとも言えないな。しかし突拍子のなさは、気が触れたのと大差ない話だ」
「そうでもないぞ。調子は急にも変わろうが、態度ってやつはそうすぐに変わるもんじゃない。そうだ、俺は代筆に賭けるね」
「様子見だ、様子見」
「なんにせよ、この処の文々。新聞は確かにくだらなくなった」
 ――。
 頭の中が、真っ白になった。


11


 投げるように代金を払うと、店を飛び出して、雑誌を握って走った――逃げるように走った。坂を下りきった公園の錆びかけた欄干に凭れて、ばくばくと打つ心臓をぎゅっと服越しに抑えつける。凄まじい心拍数。びっくりして、逆に頭が冷える。……息を吸う。
(そんなに動揺するようなこと?)
 袋ごと丸めた雑誌が、手の中でくしゃりと潰れていた。これじゃあ書棚に綺麗に納まらない、と途端に自分が腹立たしくなる。なんで自分はこう、臆病なんだろう。不意打ちに弱いんだ、ただそれだけのことだ、冷静になってみればあんなのは、よくある批判のひとつじゃないか。怖がるようなことじゃない、冷静に考えさえすれば……。
「もみじだ!」
 突然の大声、体がびくっとなる。まただ。嫌だと思った矢先にこの反射、小心な自分の拭いがたい性質。堪らなく悔しくなる。
 寝起きのように不愉快な、重い頭で返り見ると、買物袋を両手に提げた二人が、小走りに駆けてくる。なんだってこんなときに――そう悪態を付きたくなるほど、間が悪い。
「お燐さん、お空さん」それでも、ちゃんと取り繕って迎えた。
「や。どしたの、顔色悪いよ」
「息切れてるね。走った?」
 と、お空の問いを助け舟に、
「ええ……ちょっと」誤魔化した。
「そんなに急がなくていいのに。まだ時間じゃないよ――じゃあお空、三時くらいまで話してるから、また後で」
「夕飯前に洋服取りにいく時間、忘れないでよ」
「あの」と切り込んで、「そういう予定でしたけれど、せっかくですから一緒に、どうですか」
 立ち去ろうとするお空を、わざわざ引きとめたのは、お燐と二人きりになるのを避けたかったからだ。今はどうしても、差し向かいで話す勇気が出なかった。
「そう? じゃあそうする?」
 異存のなさそうなお燐とは対照的に、お空は、彼女は彼女で計画があったというように、「ううん」と二の足を踏んでいる。
「お空さんの分も、私が持ちますから」先手を打つと、
「ならいく」これで決まった。
 三人ならそう気まずい雰囲気にはならないだろう……。そう安堵しかけて、しかしふと先の学生達のやりとりが脳裏を横切った。聞き分けられる三つの声、徐々に激化していく調子、そうして、同じように二対一になってやりこめられる自分を想像すると、急にやりきれなくなった。このまま消えてしまいたい衝動に駆られる。不透明な疾しさ、小心者の自己否定……。
「ただやっぱり、この前のお店にしませんか」
 さっきの店に戻る気は、とてもしなかった。
「いいよ。パトロンがそう言うなら」
 枷がついたように重い足を引きずって、たった今転げてきた坂を、また上っていく。店の門をくぐるときは、どうやってさっさと切り上げ一人になるか、そんなことばかり考えていた――泣きたくなるほどいじけた自分。自分から呼び出したものを、なんという友達甲斐の無さだろう。
(あんな手紙、出さなければよかった)
 奥まったところに空席を見つけて落ちつくと、まだオーダーもしないうちに、
「椛、聞いた? あの黄色い花、ほら、なんだっけ」
 いかにも手柄話というはしゃいだ身ぶりで、お燐が切りだした。それでいて、肝心なところを忘れている。
「シバザクラですか」
「そう、それ。笑っちゃうんだよ。イイ話で笑っちゃうの。あたい聞いたんだけど、あれ、おじさんの片思いの相手が黄色好きだっていうんで、プレゼントに贈るために、わざわざ作ったんだって。気の長いプロポーズだよねぇ、奥手どころの騒ぎじゃないヤ。手間暇だけでも感動モンだけど、おまけに花言葉が『燃える恋』。いや、素敵だなァ」
「おじさんって年じゃないでしょ、可哀想に」と、お空も知った顔でいる。
「じゃ、お兄さんだ。お祝いに、大サービス」
「お祝い?」
「結局上手くいったらしいよ」
 黄色いシバザクラ。一番はじめに、記事にした話。あれから聞かなかった。そうだ、あれも、あの記事も、つまらなかったかもしれない……胸がずきずきする。肋骨の隙間から、五寸釘でも打ち込まれたみたいに。周りの干渉がことごとく槍になって、自分を責め立てている気がする。お燐がやけに明るく振る舞っているのも、こちらの思惑を見透かしての上という、そんな被害妄想めいた邪推さえ、止められない。
「それで、言いにくそうにしてたんですね」
 絞りすぎてカチカチになった雑巾から、さらに水を出そうと頑張るように、かろうじて声を捻りだす。
「だろうね。見ず知らずの人にばらすには、ちょっと恥ずかしいかも」
「あまりしつこく聞かなくて、よかったかもしれません」
 吐き切った息の後で出すような微かに震えた声。表情も、思うように崩れてくれない――と意識したとき、お燐が気になった。あの人を見抜くに鋭い彼女が、どうして今日はこちらの心情を察してくれないのだろう。それどころか、いつもより無暗に明るく感じられる。
「さとり様も案外ロマンチストだから、ああいうのに弱かったりしてね」
 そのあまりの陰の無さに、椛は軽い圧迫を覚えて、
「それはともかく」と捨鉢に言った。「何か頼みませんか」
「そうしよう!」
 間髪入れずに喰いついたお空がありがたい。
「またタルト食べようか」
 お燐は広げた品書きを、たいして見もせず言った。今度はお空がそれを奪い取って、ぱらぱらとめくり出す。
「好きですね」
「大好きサ。じゃ、適当な飲みものとタルト三つずつ。こんなもん?」
「はい。私、トマトパスタと、フレンチトーストと……」
「お空。あのね」お燐は強引に品書きを奪い返して、「さっき昼ごはん食べたでしょ」
「お燐がケチだから、足りなかったんじゃない」
「構いませんよ」
「椛、お空は調子に乗ると……」
「あと、杏仁豆腐」
 さすがに苦笑する。一応財布と相談すると、足りない気遣いはない。ただ今晩をもやしでやり過ごすくらいの節約は要りそうだ。
 ずらりと並んだ皿のほとんどは、お空一人のまわりに押しやられて、結局はお燐と二人、向い合うことになった。テーブルは揃って油っぽいものに甘いもので、見ているだけで胸につかえてくる上、タルトが胃もたれしそうに重い。お冷を貰って、喉を洗うように流していると、
「味変わったね」
 とお燐が言った。変わったも何も、こちらは無理やり掻き込んだようなもの、味なんてほとんどわからなかったので、
「材料でしょうか」適当な返事をすると、
「いいや、シェフが変わったとみた」と眼を光らせる。
「そうですか」
「勘だけどね。あたいはこっちのほうが好きだな」
「それでさ」とお空がパスタを飲みこんだばかりの、赤くなった口を挟んでくる。「私、話半分にしか聞いてないんだけど、文ちゃん今いないんだって?」
「ええ。あと二週間ちょっとは、一人で」
「それで、もみじは何を目指してるの?」
「独立だよ、独立。文ちゃんのお手伝いをやめて、一人で新聞やるの」お燐が先に答えた。
「何それ、かっこいい!」
「ケチャップ飛ばさないで」
 パシンと頭にお燐の手が出る。お空は膨れて、
「で、具合はどうなのさ」
「上手く行ってるんだよね」
「ええ……今のところ」
「ならいいじゃん。で、あと二週間でしょ。いけるいける」
「あたいは新聞なんて読まないけど、今回のことは応援してるよ。二人のところ一人っていうんだから、そりゃあ大変だろうけど、気合い入れて頑張ってよネ」
 だいぶ長いこと話していたという気がした。が、外の空気を深呼吸して、時計塔を見上げると、たかだか三十分しか経っていない。
 別れ際、「椛」と気安い声で、お燐に呼ばれた。結局、手紙のことは何も訊いて来なかったな、とまじまじ見ていると、「大丈夫だよ」と軽く背中を叩いて、たっと去っていく。やっぱりお見通しだったんだ、と思って、かくんと肩の力が抜ける、一方で、椛はその彼女なりの思いやりを、いまの自分が素直に受け取れないことに、苦い思いをした。けれどその言葉も手のひらも、槍の穂先には感じられなかった。それだけでも今はありがたかった。椛はしばらく、風に翻る二つのおさげと、羽根みたいにばさばさ揺れる、お空の長い髪とを見ていた。
(後で謝ろう……)
 歩きながら手帳を出して、予定を確かめる。町で消化しなければいけない用件を、丸で囲んでいく。四つ、五つ……こちらの気分に合わせて、仕事が増えたり減ったりするわけじゃない、やることは山積みだ。出来るだけどうでもいいことは後回しに、必要最低限のことから潰していこう――プライオリティー・アレンジだ――こういうときに頼みにするのは、無意識のうちに、やりなれた仕方になるらしい。人と場所と機械的に回って、写真を撮る。最後に永遠亭で栄養剤を買って引き上げた。
 飛んで行く元気もなくて、山道を這うように歩いて帰る。体も心もへとへとで、もう一寸の余裕もない。向かい風さえ身にしんどい。寝よう、帰って泥のように眠ろう。そうして、明日からまた気を入れかえて、頑張るんだ。一日くらい嫌なことがあったからって、へこたれてなんかいられない……。
 沈みかける夕陽の色が、いつか見た黒猫の瞳に似ていた。


12


 定規で引いたみたいにまっすぐな、ひたすらまっすぐな流れが、暗がりの中に消えていく。右側に等間隔に並んだ鬼火の列が、闇を燻したような、朦朧とした靄に満ちた水面を、青く仄暗く照らしている、丈の高い水草の這う石壁に沿って、永遠に遠くまで……左側は見えない。縁側から外を覗くように、小さな一室を背にしているのだ。そこから庭に下りるみたいに、水に下りられる。下りてみると水は足だけを浸して、くるぶしまでは届かない。冷たくない、暖かくもない、飛沫ではじめて水とわかるような流れ、それが浅く、仰向けに横になっても、耳に水も入らないくらい浅く、玉砂利の上をただ流れていく……振り返れば、部屋はそこに浮かんでいる、建っているのと変わらない、奇妙な四角い舟。ただ流されていく、ゆっくりと、無人のままでも、ゆっくりと、流れの先に流れていく。それがあまりに遅いので、心配になってくる。間に合わないかもしれない――何に? いくら気持ちばかり焦っても、やはり舟はいっこうに急ぐ様子もなく、昼とも夜ともつかぬ、影絵のような川の一本道を、為すすべもなくゆっくりと行くのだった。
 それが悲しかった。しかし水は綺麗だった。小走りに舟を追い越してみる、左側が見えるようになる、川岸があるかどうかもわからぬままに、ただ黒い闇がどこまでもせり上がっている。空さえ見えない。川の外側というものはないらしい、と悟る。川の外側はこの世界の域外なのだ。他に行くべき何の道もない、この流れを行くしかない……。舟を背後に置いて、歩いていく、その方がずっと早い。あっという間に置き去りにされた舟が、遥かに小さく、鬼火のあわれな光に照らされて見える。それをじっと待っている、舟はゆっくりこちらに近付いてくる……やがてさっき足を下ろした縁先がそのままに、自分の前に現れる。乗り込んで畳に休むこともできる、このままやりすごすこともできる、何もかも自由だ――けれどこの舟が行ってしまったらどうなるだろう? そう考えると肌がぞっとして、凍るように恐ろしくなって、また乗った。無限の放浪、早く戻りたい。――何処に? いくら行き先を考えてみても、何のアテが浮かぶこともなく、何を告げる者もいない、やはり舟は沈黙を守ったまま、生き物の絶えた世界の三途の河のような、まっすぐの仄暗い静謐を、耐えがたく、ただゆっくりと行くのだった。
 それが悲しかった。


13


 朝、四月前半分の簡易会計報告が届いた。念入りにみるまでもない、右の列に立ち並ぶ黒い三角印の列を、ざっと視線になぞっただけで、椛は懺悔するかのように、両肩を落としたのである。
 最後の頼みにしていた数字にも、裏切られた。
 合わせる顔がない。文にも、お燐にも、――あのてんとう虫にさえ……。昨日の夜に書き上げた原稿が、窓からの風を受けてゆらゆら左右に揺れている。溺れてもがいてるみたいに――それが自分を苛んでいるようで、椛は、いよいよ絶望の淵に沈んでいくような、憂鬱な気分を掻き立てられた。そうしてそれは、ちょうど首の後ろから骨に麻酔を刺されたような、重くけだるい不快感として――身体的な不調という形で、現実に表れて来るのだった。
 それでも机に向かう。かり、かり、と筆を走らせる。つらくても、書かなきゃいけない。手を動かすしかない、楽しいとか、苦しいとか、そんなことは知らず、ただ手を動かすことだ。……なにもかも、変わってしまった。
 手を動かしながら、自由になった頭は気が付けば「気にしていませんよ」と人に告げる、その言い方ばかり考えている。落ち込むならもっとしっかり落ち込めばいいんだ。それなのに、どうしてこんなことになったか……たとえば人が変わって読者も戸惑ったかも知れない、最近あまり人目を引くようなニュースは無かった……などと、都合のいい解釈ばかり探している自分が、あきれるほど情けなかった。こんな臆面もない欺瞞を、平気で脳裏に遊ばせるような自分だとは、思ってもみなかった。
 そのことに、なにより打ちのめされた。真面目で誠実で、たとえ天才肌はなくても、やるべきことはきっちりこなす真面目な自分。そう心頼みにしてきた自己像が、こんなにも簡単に崩れ去る、そのはかなさに、衝動的な苛立ちさえ感じた。それが胃の上あたりに圧縮されて、熱いゴムでも飲んだみたいに、苦しく胸につかえる。
(どうしたらいいんだろう)
 椛は、自分がなんだか小さな蓑虫のように思えてきた。殻を纏った脆い身は、羽化を信じて待つけれど、ほんの小さな穴が空いたら、それでお終い、もがくことさえ叶わず、新たな光を浴びる夢も潰えて、内から滅ぼされて行く、哀れな末路……。
 栄養剤だけ喉に流して、ふらふらと仕事場を出た。
 困憊しきって、食欲がまったくなかった。けれどもそんなことより、外に出てからというもの、何を見ても、誰と会っても、何の感情も湧いてこないことのほうが、つらかった。見るもの聞くもの、ふわふわしている。まるで自分だけが世界から隔離されてしまったように、ちっとも現実感がない。知らない土地で迷った真昼みたいに、ただぼんやりと彷徨しながら、どこへ行っても、誰と会っても、何も思わず、何も考えず、ただ体を動かすことしかできなかった。
 ちっとも悲しくない、悲しくならない。絶望的なほど悲しいはずなのに、こんな薄情なことがあるだろうか? 自分の心だ、感情だ。せめて、せめて自分の挫折と落胆を、形ある形、、、、で知りたいじゃないか――。それなのに、取材だ、撮影だ、次の紙面を、印刷が間に合わない……こう、いっそう仕事に打ち込むことでしか、動揺を紛らせられないのだった。万全を尽くしてさえいれば、それ以上のことは自分の責任じゃない、と観じているかのような、どこまでいっても卑怯者の考え方。夜燈に群がる羽虫のように、払っても払っても戻ってくる、それが疎ましくて仕方ない……。
 夕方前、いつもの樅のてっぺんに、よろけるように登って、ネタを探しに四方へ千里眼を走らせた。早速、霧雨魔理沙の家に近く、非常識なほど巨大な茸を見つける。それが良いネタになりそうで、頭に二重丸を付けた。あとは小さな出来事から、大勢を巻き込んで騒がしい事件まで、ひとつ、またひとつ、確認しては、機械的に手帳へ書き込んでいく。
 明日、明後日、同じことの繰り返しだ。文が帰ってきたら変わるだろうか、元に戻るだろうか。でも、元に戻ることを期待しているなら、今こんな思いをしていることに、何の意味があるのだろう。この身ひとつの一人旅を言い出したのは、他でもない自分だったのに、裸の犬走椛は何の収穫もないままに、もう帰りたがっている。忘れ物でもしただろうか?
(私はいったい、何がしたいんだろう……)
『それで、もみじは何を目指してるの?』
 思考に被さってくるように、突然、お空の声が聞こえた。
『独立だよ、独立――』
 答えたのはお燐だった。
(そうだ、あのとき、答えたのは私じゃなかった)
 ふと、マヨヒガの方角で捜索の眼が止まる。今ごろ文は、自然の迷路に彷徨っているだろうか、それともなんとか工夫をこらして、貴重な地図をこつこつ書き進めているだろうか――マヨヒガの中までは、千里眼は届かない。
『さぁ出かけよう――』
 そう歌いながら、喜々として準備にいそしんでいた、あの日の文の姿を思い出す。とてつもなく大きなリュックサック、何を詰め込んでいたっけ――歌詞をまたなぞってみる。一切れのパン、ナイフ、ランプ……。
『あの歌詞には、旅に必要なものがみんな揃ってるんですよ』
 ハッとした。
『父さんと母さんは本当にいいものを遺してくれましたよね』
 重力が滝のように足の方へ流れて、地面に落ちていく。錯覚に捉われて、あやうく墜落しそうになる。旅に必要なもの。
『あるかなしかの差じゃないか……』
 何が無かった。
『なんにせよ、この処の文々。新聞は確かにくだらなくなった』
 元気も、ネタも、やる気も、何もかも持ち合わせていたと信じていた、あの時の自分に、足りなかったもの。致命的な忘れ物。
『もみじは何を目指してるの?』
(――コンパスだ)
 悔しくて、情けなくて、唇を血が滲むほど噛み締めた。


14


 思い返せば滑稽なほど、自分には通すべき筋が欠けていた。何を書きたかった? 何を読んで欲しかった? 何がしたかった? ひとつとして答えられない。懸命に走っているつもりで、何も見えないまま闇雲に突き進んでいた、ただ約束の数字を守ることだけに縛られて――その結果が、文の築いた信頼さえ巻き込んだ、この惨めな失墜だ。独立を誓ったあの日から、自分が必死に演じてきたのは、サクセスストーリーでもなんでもなくて、出来の悪い三流の茶番狂言だった……悲劇の道化芝居、目的地不明の旅。いつかの鬼の足跡のように、寄る辺もなく彷徨うだけなら、人知れず消えていく以外の結末が、あるはずもない……。
 しばらく木の上に立ち竦んだまま、動けなかった。マヨヒガからの風を受けて、ただ止まる五分、十分。
(でも、それじゃあ私は、どうすればよかったんだろう)
 しかしこう問いかけてみると、その先に微かな光の見える気がして、溺れるような自虐の中に、ほんの少しだけ、勇気らしいものが湧いてくる。この吐くような眩暈を超えられれば、何かがわかるかもしれない。そんな期待に駆られて、ようやく時間が動き出す。
(どうすればいいんだろう、だ)
 椛は仕事場に戻ると、書庫へ駆け込み、これまでの文々。新聞のバックナンバーを引きずり出してきた。数百部はくだらない新聞の山、新しいものから順に目を通す。文々。新聞を貫く糸を、コンパスを探して、自分の「くだらない」記事との違いを求めて、ひとつひとつ隈なく読み返していく。何かが違うはずだった。小手先の瑣末事ではない、根本的な何か。
『調子は急にも変わろうが、態度ってやつはそうすぐに変わるもんじゃない』
 思えば椛は一か月前まで、たとえどれだけ完成に貢献しようと、ただの一度たりとも、自分一人で新聞を完成させたことはなかった。全ては必ず、最後に文の推敲を通していた。書きあがった原稿を見せるといつも、ちょっとだけ手直しをする。「これじゃダメですよ、椛」そう言いたげな、寂しそうな、残念そうな顔をして。そうして、すべてに文の手が透る。
 いつだって、そこで糸は通っていたのだった。けれど今、以前の姿がわからない、どこをどう直していたか、思い出せない、それが悔しい。もし思い出せたとしても、それさえ自分一人で築き上げたものかどうか、今となっては自信がない。取材中に文の口添えひとつ入りこんでいれば、それは手がかりにはならなくなって、またふりだしに戻る。思いがけない発見と閃きを待ちながら、事件は古く、懐かしいものになる、打たれた日付は刻々遡っていく、やがて自分の欠片もいない時代に辿りつくのだと焦らされて、ますますわからなくなってくる、いったい、何が違うんだろう。……。
 散歩に出た。部屋に籠ったきりで、さすがに気分ばかり滅入ってきて仕方がなかった。それで、歩くことにした。
(もう、コート着なくても平気だ)
 夜。孤独な散歩者を、森が静かに見下ろしている。『どうしたの、椛ちゃん、落ち込んじゃって』、そんなふうに声をかけてくれたら、少し気が楽になるのにな、と思う。そんな子供じみた甘えを抱えて登る山は、いつもより少しだけ幻想的に見える。ちょうど子供の頃見ていたような姿で、自然の全てが目に映る。
 約束の前日、同じ道を歩いたあの日の、雨あがりの匂いを思い出す。今日はそれに、さらさらした感触が乗って、頬を撫でるやわらかい夜気、風が来るかもしれない。川へ、また町へ、下っていく道が、まっすぐ、銀色に浮かび上がっている。そこをゆっくり降りていく。
 あたりは靄を透して青白い。降りて行くつれてその柔らかい色彩が、少しずつ藤色を帯びて、遠くの空間に溶けていく。短調の曲を想わせるような夜。いつもとはまるで違って見える、景色。
 町の明かりに照らされて、夜桜が琥珀色に煙っている。遠く山の稜線は、春の水蒸気に暈けて、ただ黒々とした線に見える。そのうえに、月はただ満月だ、飾ってあるみたいに満月だ――めいめいが自分勝手に夜の気配と馴染もうとして、それが不思議と調和している、そんな美しい自然の書割を、椛はなんだか、自分の書いた新聞のように眺めながら歩いた。それが不遜な気持ちに思えなかった。しんとした風景に、綺麗だな、と見入っていただけのことで、どうしてそうなったかわからない。ただ、ひとつだけ確信があった。もしこれが新聞なら、文は決してこんなものは書かないだろう――。
「何か出来事があると、そこには引き起こした当人がいて、もしかすると狙われた標的がいて、あるいは巻き込まれた人がいて、現場を目撃した通行人がいて、駆け付けた野次馬がいて、心配そうに語る人がいて、耳にして抱腹絶倒する人がいて――そうして、それを報道する私たちがいます」
 文は言った。かなり酒の入っていたときで、寝床まで酌に付き合わされた夜、いつにも増して饒舌だった。
「考えてみれば、面白い話じゃないですか。事件だ記録だといいながら、結局は一に人間、二に人間なんですよ。ざっくり言ってしまえば、人は事件を知りたいわけじゃないんですね、事件を口実に、やっぱり人について知りたがってる」
 極論ですけどね、と文は笑った。けれど人の知りたがってることを、書こうとするのが記者のつとめなら……出来事ばかり叩いて、出てきた埃のようなくだらない記録ばかりを、紙に落とすのではなくて、人に食いつき食い下がって、言葉巧みに噂に上らぬ話を釣り上げる――いつも文がそうしていたように――そうだ、それが諜報、、というものじゃないか。
『椛ちゃんが来るようになってから、とっても話しやすくなったわ』
 いつか聞いた早苗の言葉が、耳にくっきり蘇る。手紙にまで誇らしげに書いて、舞い上がっていたあのとき、どうして気がつかなかったろう。大馬鹿だった。情報を探りに来た相手と、話しやすくなったということは、他でもない、あしらいやすくなった、、、、、、、、、、ということじゃないか。たとえ早苗にそんな気はなくても。私はただ、嫌われたくないだけだった……。
 少しずつ胸のつかえが溶けていく。それでもまだ何か溶け残ったような、手触りの綺麗にならない気持ちを抱えて、ただ歩いた。川を渡って、町に入る。
 まだ人通りのちらほら見える夜の町、いつもは足を運ばない方へ、そっと、誰にも見とがめられないように、肩を小さくして歩いて行く。何度も空を仰ぎみる、銀を撒いたような星空。……気づいたことに素直になれない自分が、まだどこかに残ってる、それが最後の氷という気がする。歩きつづける。黄色く煙る夜の町灯りは、まるでいつかの芝桜が、そこらじゅう咲き乱れたみたいで、『恋人に想い伝える芝桜――黄色い花々、春に眩しく』、文ならきっとそんなふうに書いただろう、あの記事も、自分には満足に出来なかった。踏み込む勇気がなかった、人への興味が足りなかった、その道を見出すための眼差しも、忘れてきてしまった。
『prestoの哀歌や挽歌がありますか? 私に言わせれば、悲しくなるっていうのは、つまり、遅くなる、、、、ってことです。涙は止まった者に憑くんです。だから、走りつづけることです』
 ばさ、と突風に煽られて、何か大きな紙が足元を吹き抜けていった。体がびくっとする、ああ、臆病な自分。久々に見つけた、いじわるな自分。いい経験になったじゃないか、なんて格好つけてる自分より、そうだ、こっちのほうがずっと私だ――。
 なんだかその紙を、追いかけたくなった。思いきり走った。走って走って、息を切らして追いかけて、路地に吹きこまれていくのを、捕まえようとして、滑りそうになっても、見失わずに、狭い道をまだ追いかけた。何のためかも知らず、ただもう一度、あの時のように、がむしゃらに、どこへつづくかもわからない、暗い道を、まっすぐ、まっすぐ走って、終わりまで駆けてみたかった。あとちょっと、もう少しで、手が届く――。
 急に、風向きが変わった。
 ……。
 立ち止まる。
 その拍子に、追いかけていたものを、くしゃりと踏んだ。新聞の表紙。ゴミ箱にさえ棄てられなかった、泥まみれの一号。しゃがんで手に取る。
 一昨日の文々。新聞だった。
(文さんは、こんなとき、泣きたくなかったのかな)
 途端にどっと悲しみが込み上げて来た。ぼろぼろ涙がこぼれて、止まらなかった。


15


 文々。新聞(ぶんぶんまるしんぶん)――射命丸文が編集・発行する新聞。取材、起稿、配達のすべてを射命丸文が個人で行う(*1)。印刷は業者へ委託している。
 天狗新聞の一として、xxxx年、妖怪の山で創刊。当初は主に関係者と一部の定期購読者にのみ配送される内輪新聞であったが、人気のため昨年度より市街での販売を開始した。発行は原則不定期。週に一部から二部を目安としており、その他の発行物は号外となる。朝刊、夕刊の別無し。発行部数は公称三千部。
 一定期間以上契約を更新した定期購読者について、射命丸文とある程度親しくなれば、購読料が無料になることがある(*2)。
*1:現在犬走椛がアシスタントを務めている。実質二人体制。
*2:ただし以降取材の対象としてスクープを狙われる恐れ有り。


 昨日の夜、新聞と一緒に持ち出した文のスクラップブックに、例の月評雑誌で文々。新聞の取り上げられた、そのときの紹介記事を見つけた。それが懐かしくて、読んでいた。当時、注釈に自分の名が載っているのが、ものすごく誇らしかったのを覚えている。
 けれど今、気にかかるのは、もうひとつの方の注釈だ。
『*2:ただし以降取材の対象としてスクープを狙われる恐れ有り』
 こんな恩を仇で返すような真似をして、どうしてあんなに皆から好かれていられるのだろう。それが不思議だった。自分にはできなかった、きっとこの先もできないだろう、だから何度読み返してみても、「これが文さんだ」と椛は、一種特別な感慨を覚えずにはいられないのだった。
 次の日、昨夜見つけた茸を記事にしようと、霧雨魔理沙を訪れた。
「こんにちは、文々。新聞です」
「椛か。あれだろ、茸。さすが、千里眼は違うな」
「何があったんですか」
「実験に失敗してな。ちょっとした道具の爆発事故さ、破片も魔法もそこらじゅう散らかって、おかげで屋根もがたがたになっちまったぜ。あの化け物茸もそのときに魔力でも浴びたんだろう。いや、えらい出費だぜ。ネタ代欲しいくらい」
 そこで言葉を切って、こちらをじっと見つめてくるので、
「いくらですか」と呆れると、
「ばか。お前は、真面目すぎるんだよ」
 呆れたのは向こうだった。なんとなく、腑に落ちない。
「もう少し詳しい話、中で聞かせてもらえますか」
「いいぜ。三時だし、おやつくらい出そう」
 言葉通り、かんたんなお菓子をひとつふたつ、おやつに頂いた。三十分弱、紅茶をつなぎに、茸の話もあらかた聞き終えたころ、椛は今日はじめから切り出そうと思っていた質問を、
「魔理沙さん。文さんのこと、どう思います?」と投げてみた。
「どうって」
「何でもいいんです。楽しいとか、うるさいとか」
「うっとうしい、だな」
「うっとうしい……ですか」思った以上に過激な答えで、少し怯む。「どのあたりが、でしょう」
「何かと嗅ぎ付けてくるのがうっとうしい。絡んでくるのがうっとうしい。テンションがうっとうしい」
「じゃあ、好きか嫌いかといえば、嫌いですか」恐縮して訊くと、
「あいつのこと好きなやつなんて、お前以外にいるのか?」とからから笑って、「けど、まあ、嫌いなやつもいないだろうな。私も別に嫌いじゃない。その二択は理不尽だぜ」
「そんなに、その、うっとうしいと思うのに……どうして」
「なりふり構わないのが、あいつのプライドなんだろ。ならしょうがないさ。そういうのは、憎めないもんだ」
「……」
「皆が皆、そうかどうかは知らないけどな」
 言う通りだ、と思った。そうして、うっとうしいと思う相手にまで、こんなふうに言わせる文という人が、ますます雲の上の存在に思えてきた。ちょっと会わないうちに、いつのまにかずっと遠いところに行ってしまったような、錯覚。
「もうひとつだけ、いいですか」
「なんだ、やけに改まるな」
「今日の私の取材と、文さんの取材……どこが違いますか」予定にない問いかけが、口をついて出た。
「そうだなあ」と魔理沙は言葉を探す。その一瞬の空白に、無限の固唾を飲む思いがする。何を言うだろう。
「そんなに違うとは思わないが――」全身を耳にした。「ああ、あいつはとりあえず外のあれ、食うんじゃないか?」
 そのとき上の方で、がたんと隕石でも落ちたような音、次いですぐ、大きな何かがまっさかさまに天井から落ちて来た。どしんと床に落ちて、「あいたあ!」と悲鳴を上げて、埃を舞い上げ転がったのは、でっかいリュックサック。
「噂をすればなんとやら、か」
 それと、下敷きにされた文だった。
 椛は紅茶の手を取り落とすほどぎょっとして、呆気に取られた顔をした。雲の上から、落ちてきた? 違う、屋根だ、見上げると、ぽっかり穴が開いている。荷物のせいで、とっさには飛べなかったらしい。
「迂闊だったな、文。屋根はまだ修繕が完璧じゃないんだ」
「いたた……私としたことが、ぬかりました」
「どうして、ここに?」やっとのことで声をかけると、文は荷物をよいせと脇に避けて、ぱっぱと体の埃を払いながら、
「それがマヨヒガの地図、途中までうまいこと猫ちゃんを誑かして案内させてたはいいんですが、途中で保護者に見つかりまして。そちらもなんとかおだててすかしてやってたんですが、とうとうそのまた保護者に感づかれましてね。大慌てで逃げ帰ってきた次第ですよ、いや情けない」
「で、さてはこいつが心配で、張り付いてたな」
「う……まあ、そんなところです。しかしですね、うっとうしいうっとうしい言われたときは、もう少しでひとり泣きそうになりましたよ。どうしてくれるんですか、この切ない気持ち」
「ネタの無料提供でチャラだろ」
「提供というのは、試食も入るわけですね」
「好きにすればいいさ」
 楽しげに挨拶を交わす二人をよそに、椛はしかし、一人面目がなかった。
「文さん」
 と揺れる声音で呼びかけて、こちらを向いたその顔にも、つなぐ言葉が見当たらない。そうしてたった一言思いつく、ごめんなさい、と、そう言いかけたとき、
「謝らないでください、椛」文はばっと手を前に出して、言った。
「たしかに約束は上手くいかなかったみたいですが、私だって一ヶ月、帰ってこないって約束したのに、まだ三週間しか経ってません。だからまあ、おあいこってことで、いいじゃありませんか」
「でも……」
「売り上げなんて、またすぐ取り返せば済む話です。そんなことより、椛、何か得るところは、ありましたか?」
「……はい」
「それならよかった」
 心底嬉しそうに言う。あんまり屈託がないから、こちらまでしがらみを忘れて、素直に褒められたような、嬉しい気持ちになる。
「リトライはいつでも言ってくださいね。一か月のバケーションっていうのも、なかなかいいもんでしたよ」
 しょげているのはもったいないと、即座にこちらの意を汲んで、手を差し伸べてくれるこのやさしさが、懐かしくて、嬉しかった。
「ありがとうございます」ごめんなさいと言うより、ずっと気持ちがいい。「でも、まだまだでした。技術的にも、精神的にも……いつか文さんみたいに、ちゃんと一人立ち出来るようになりたいです」
「出来ますよ、あっという間でしょう。それに普段はあなたの手前、格好いいことばかり言っていますけど、私だって一人の頃は、町で自分の新聞踏んで、ぽろぽろ泣いたもんです」
「へえ、意外にかわいいところあるじゃないか」
「今のは椛に言ったんです。当然、オフレコでしょう」
「そんなことは知らんなあ」
「まったく、もう。さあさあ、そんなことより、外のあれを頂いてみましょうよ」
 外へ出ると、やはり茸の存在感が、何にも増して強烈だった。三時過ぎての明るさで、かっと陽の差す傘のおもては、赤と青とで原色めいて、不自然極まる配色に、天然ならぬ不気味な艶が毒々しい。
「たしかに許可は頂きましたからね」
「どうなっても私は知らないぜ」
「記事のためです」
 誇らかに言い切って、にじり寄る。身長を凌ぐ巨大な茸、手を拱いて仰ぐように眺めながら、
「大体、こういうでっかいのには大した毒はないって相場が決まってるんですよ。怖いのは小さいやつです。形に変哲がなくて、色も地味な感じの……」
 やがて端の部分をちぎると、ためらいもなくぱくりといった。眉ひとつ動かさず、吟味するように咀嚼する。
「ああ、いけますよコレ。見た目のわりに随分香りがあって」
「いいから、喰ってるあいだはしゃべるなよ、はしたない」
「っ。うん、火を通せば酒のつまみにちょうどいいんじゃないですか。蛸刺しに近いです」
「おー、じゃあ、珍味として売り捌けるかもな」
「いいアイデアです」
「修繕費もかさむからなあ、そうなったらありがたいぜ。そうだ、あとで霊夢にも差し入れしてやるかな……」
 ただの巨大な茸から、我が身を削り体を張って、こんなちょっとした人間劇まで作り上げてしまうところを、こう目の当たりにして、椛は感嘆せずにはいられなかった。いつも見てきた当たり前の光景の中に、こんなに素晴らしい、芸術と創作の仕事がある。
「なあ、お前の先輩は凄いやつだな」
 と魔理沙が、心のうちを見透かしたように言った。
「あんなふうになりたいか?」
「はい」
 素直に頷く。取り戻した憧れは、昔よりずっと強かった。凄い、文さんは、本当に凄い。けれどまた、きっとああはなれないだろう、と椛は思う。それでしあわせだった。あんなふうになりたいと思える人を傍に、自分もまたきっと、いつか何者かになるだろう。そのとき、それが少しでも文さんに近づけていれば、それでいい。
「じゃあ、お前も喰ってきたらどうだい」
「いいえ、私はやっぱり遠慮します」
「ん? なんでだ」
 自分はまだまだずっと、この人に随いて行くんだ――椛は確かにそう思った。そうして、得体の知れない茸を躊躇なくちぎって食べる先輩を、その横顔を、尊敬いっぱいのまなざしで見つめながら、
「記事のためです」
 嬉し涙の似合う笑顔に、こう、胸を張って答えたのだった。


≪翌日の文々。新聞、一面コラム≫
『霧雨魔理沙邸に巨大茸出現』
 今月二十九日、霧雨魔理沙邸付近で巨大な茸が発見された。真紅の表面に群青色の斑点を有する人間大の傘状茸で、茎部につばを持ち、傘の裏側には黒色のひだが見られる。この他外形上の特徴は、現在確認されている菌類のいずれとも異なり、新種の変形菌もしくは化学物質や魔力等の影響による突然変異種の可能性が高い。採取された試料は昨夜永遠亭に運ばれ、現在分析が進められている。所有者の霧雨魔理沙は「珍味として売り捌けないかな」と笑顔で語るが、現場で試食した記者・射命丸文は当日深夜、極度の腹痛と発熱で人事不省に陥り、試料を追って永遠亭に運ばれた。人体への有毒は疑い得ず、本誌は当該茸の速やかな焼却処分を求める方針である。(代筆・犬走椛)

(2009年05月13日 「東方創想話 作品集その76」にて公開)

Zip版あとがき

初書き椛を主人公にひとつ、書こうと思い立ってすぐ書き出したもの。暇々にゆっくり筆を進めていたせいか、頭の中に椛期間が長くてけっこう愛着が湧いてしまいました(笑)

お話としては椛の成長物語というひとつの王道にまとめつつ、裏に一本筋を通してみたり、色々副題を展開させてみたり、中編以上の長さあるものならではの試みも、いくつか盛り込んでみて、そこそこいい形にまとまったかな、と思っています。