株式会社にとりん

「神サマってのも見ようによっては、人の杞憂を食い物に商売してるようなもんで」
 博麗霊夢は自らの神社を背中に、堂々たる調子で言った。それはいくぶん唐突な、悲観と達観の相の子めいた言い方で、しかし自信に満ちた語り出しだった。寒い、乾いた昼だった。
「とすれば巫女は本質的にそのスーパーバイザーでありマネージャーであり、コンサルタントでもあるわけ」
「またとっぴなことを」
「ひとつクイズをしましょう、魔理沙。神サマはどうして神サマか」
「なんでって、そりゃあ、皆からありがたがられて、崇め奉られるから?」
「崇め奉られる理由は?」
「それは……」
 魔理沙は答えに詰まった。言われてみれば誰も彼も、見たことも触れたこともない神様なるものにやたらと感謝して、手を打ち、鈴を鳴らし、挙句の果てにおやつのお金を渋ってまでも、お賽銭を放っていくのはどうしてだろう。そのわけがはたとわからなくなった。ただなんとなく皆がそうしているから、また自分もこれまでそうしてきたからという、習慣の惰性に引きずられていただけのような、そんな気もしてくる。
「答えは、未来」
 霊夢はそう言って、ちょうど遠い未来を見据えるように顎を上げた。顔いっぱいに初春の淡い日差しがそそぐ。
「今が不安な老若男女に、未来を教えてくれるからよ。お参りの夜にはきっと夢枕に、昼間ならだれか他人の口でも借りて、ひとことふたこと、御高説を零してくれるってね。明日はきっと素敵なことがあるでしょう、来月はきっと待ち人に会えるかも――でも実際は、神サマのお告げなんてちっともアテにならない。どれもこれも、たまわった当人の妄想か、伝えた誰かさんの妄言か、要するにせいぜい五分に五分。それでも当たれば奇跡だもの、いい商売だわ。知ってる? デルフォイって、毒ガスのメッカだったのよ」
「どうか私をお守りください、どうか私の未来を変えてください、ってお願いすることもあるぜ」
「そうね。でもたとえセキュリティがザルだって、料金は前払いで払い戻しは一切ナシ。掴まされたのがキズ物の運命だってご生憎、クーリングオフも効かないありさまよ。ねえ、ひどい話じゃない? その点私はもっと確実な、来るべき未来を教えるわ。お望みとあれば、理想的な未来に導くわ。それも、失敗したらちゃんとお金は返すんだから、どんなに立派なことかしら」
 霊夢は言い切って、ふ、と勝ち誇った嘲笑を見せた。
「つまり私は、神サマを超えたのよ」
 たしかに、なんの約束もなくとつぜん押しかけた友人に、一本八千円の栗羊羹と、百グラムで二万円の緑茶を惜しみなく振る舞うその姿には、一種の後光が差していた。そうして魔理沙は、あらぬ世界へトリップしてしまったこの親友を、とくべつこちらに連れ戻そうという気も起きなかった。それよりは明日もまた御馳走になりたかった。菓子も茶も、それほど美味かった。
「まあ、なんだ、おめでとう。これ包んで持って帰っていいか?」羊羹はまだ半分以上残っている。
「どうぞ」と霊夢は快諾した。いつもなら、いちもにもなく却下される申し出だ。「でも食べすぎると太るわよ」
「平気さ。じゃあ、また明日来るぜ」
 事実、明日もまた訪ねるつもりでそう言うと、魔理沙は羊羹を抱えて飛び立った。そうして思わぬ土産物と土産話をお裾分けに、にとりのところへ寄っていこうと考えた。今日はいい風が吹いている。川辺はきっと気持ちがいいだろう。
 魔理沙は追い風を見つけて、すこし高く飛んだ。青い空、高い陽、気持ちのいい雲模様――それに引きかえ足元には、まだ淋しい枝ばかりの森の中、すっかり神格を剥奪された神社が、いつもよりいっそうみすぼらしく見えた。

***

 要するに、博麗コンサルティングは大成功だった。
 外の世界のできごとである。外の博麗神社といえば、人里離れた山奥に廃墟のように建っている、建っているというよりは残っていると言われるような、いつに変わらぬ遺跡のような扱いの、いまにも崩れてなくなりそうな年季の入った建築だ。その押し出しはどう見ても、とても現在稼働中とは思われない。それでもそこに人さえ居れば、稀にはお参りしていこうという信心深い人々もいるところにはいるもので、そんな変わった常連客もひと月に数えるほどはやってきた。
 その中に、ある地元商店街の店主がいた。文房具店を営む彼は、近頃経営不振に悩んでいると、あるとき霊夢に打ち明けた。打ち明けたといっても、誰にでもこぼしているらしい愚痴のようなものだった。これといった失敗があったわけでもないのに、ただ日増しに陰ってゆく景気のあおりを受けて、どうしようもなくじりじりと売り上げを落としていくのが、家族ともども頭痛の種であるらしい。
 霊夢は成り行き上、しばらく相槌に終始していた。けれどもやがて気付いたことをひとつふたつ、口を挟むようになり、生来のおせっかい癖も手伝って、いつしか詳しい話を聞きだすと、抜本的改革が必要ねと堂々切り出して、仕入れのやり方から在庫管理の最適化からキャンペーンの打ち方から商品のディスプレイから広告宣伝のあり方まで、理屈と想像とに任せて思うところを勝手気ままに述べ立てた。
 清濁織り交ぜた大胆な計画ながら、霊夢にとっては、ひとごとと思えば口も軽かった。しかし彼はその理路整然とした語り口にいたく感銘を受けたものらしい、要点をメモにまとめつつ、だいじなところは復唱を乞うて、ありがとうありがとうとなんども礼を言うと、さっそくの実行を誓って、意気揚揚と帰って行ったのだった。
 それからしばらく神社に通い詰め、巫女の託宣を一心に信じた結果、驚くべきことに、彼の文房具店は経営業績を見事に改善した。客単価は漸増し、利益率は右肩上がり、仕入れルートは拡充し、新たな販売チャネルの開拓にも成功した。そんな諸々の戦績を晴れやかな笑顔で伝えに来たとき、当然の成り行きとして、彼は同じ悩みを抱えた商売仲間も連れてきた。
 ここでこれ以上の面倒事はごめんだと、きっぱり断るのがふだんの霊夢であったが、彼女を引きつづき商人たちのメシアたらしめたのは、先の男が差し出した「お礼」なる茶色い封筒であった。涙ながらに感謝されるという月並みな優越感を補ってあまりある、ずしりと重いその紙の感触は、いやがうえにも霊夢の『親切心』をくすぐった。この封筒があと三ミリ薄かったら、歴史は変わっていたかもしれない。
 さて、極めて優れたアドバイザーは、往々にして一般には知られないものである。この神社を装った助言機関もご多分に洩れず、親しい者の口から口へと伝わって、どちらかといえばその筋での裏名物となった。しかし顧客の数は確実に増えていった。いずれ地元商店街のみならず、山を隔てて地域を超えて、遠方から遥々資料を携えて来る者さえあらわれた。
 勘と経験と度胸に根差した霊夢独自の戦略は、百発百中とはいかずとも、さすがの金への嗅覚と、生まれもっての執念に、熟慮熟考の上で打つ手はことごとく的を射て、いつしか名うての評判を勝ち得ていた。そうして翌年には名実ともに、立派な中堅コンサルタントとなっていたのである。
 仕事を選び、忙しさに飲まれることなく、暇な時間のワークライフを送りながら、溜まりに溜まった謝礼金の総額と、塵も積って山となったロイヤルティは、いまとなっては誰にも計り知れない。そのほんの一部の結晶が、あの栗羊羹だったり、宇治緑茶だったりするのだ。
 博麗コンサルティングは、いまも多くの支持を得て、興隆一途、栄華の極みに輝いているのであった。

 そんなひととおりの経緯を話すと、にとりは、そこらじゅうにこだまするほど笑った。そうして、冷たい川の流れに素足を浸しながら、
「お金持ちっていいよねえ」あっけらかんとした調子で言った。
「そうだな、土産も太っ腹になるし。こんなもん、ふだんなら紙切れみたいな薄さでしか食べられないぜ」と魔理沙は羊羹にかぶりつく。いまの一口で、以前の巫女なら七日分の食費である。
「それもそうだけど、機械いじりにもけっこうお金がかかるんだ。私にももっといっぱい予算があったらなあ」
「部品だってタダじゃないもんな」
「プロトタイプができるまでがたいへんなんだよ。いくつもいくつも壊して直してだからね。出来たのだって遊び尽くしてるうちにまた壊れるし。お金のためにやってるわけじゃないけど、次のを作ろうと思ったら、それなりに先立つものが要るよねえ」
 その言い方には、他ならぬまさにいま、先立つものに困っているという含みがあった。ふだんの生活で金に困る魔理沙ではなかったが、古本市や骨董市を逍遥しているとき、運命の出会いと言いたくなるような一目惚れの品に、いま一歩手が届かないときのあのもどかしさ、趣味の気ままな謳歌にどうにもならぬ枷をかけられるあの悔しさ切なさを思うと、悩みごとの少ないにとりには珍しい、その金欠の煩悶もよくわかるのであった。
 そこでふと思いついて、
「あれだけの技術なら、ここではともかく、外でなら金になりそうなもんだ。それこそ霊夢に上手いことやってもらっても、面白いんじゃないか」と持ち出すと、
「いいね、それ」
 思ったとおり、にとりは乗り気そうに、ぱっと明るい顔をした。
「たしかに私は商売のことなんか全然わかんないし、お任せしていくらか貰えるんだったら、それだけで嬉しいな」
「どういう形になるか知らないが、いまよりはいいんじゃないか。とくべつ悪いこともないだろう。ああでも、契約するならそのときは、立ち会いに呼んでくれよ。あいつのことだ、どんな罠をしかけてくるか知れたもんじゃない。とてもじゃないけど、お前一人じゃ心配だぜ」
「大げさだなあ。いくらなんでも、霊夢だってそこまでしないよ」
「どうだか。賽銭箱を蹴とばしただけで、中にいくら入ってるか、十円単位でわかるような女だぜ」
「ふーん、枚数だけじゃなくて、硬貨の種類もわかるんだ」
「音の高貴さがまるでちがうんだと」
「えっと、それは冗談でしょ」
「今朝は六百八十円だってさ」
 いかにも真実らしく真顔で言うと、ここにきてにとりの天真爛漫な笑顔も若干ひきつった。「えっとぉ」と言葉をにごして、左を見て、右を見る。返す言葉がなくなると、こうして困ったように目を泳がせるのは、いかにも根がまっすぐな彼女らしい愛嬌で、そんなしぐさ見たさにたまにはちょっとからかってみたくなるのも、きっと魔理沙ひとりということもないだろう。
「まあ、聞いてみるだけ聞いてみるんだな」
「これから行くよ。今日は話だけでも」
 にとりはもうすっかり気乗りして、足を高く上げると、ぱしゃっと水しぶきがあがって、滲みるような木洩れ日にきらきら光った。ぱらぱら落ちる水滴の音に混じって、どこかで水の音がした。魚の跳ねる音だった。
「鮠か?」
「寒鮠だね」
 にとりはその鮠の後を追うように、ざぶと川に飛び込んだ。飛びかかる飛沫は身が引き締まるような冷たさで、魔理沙は思わず身震いがした。三月もそろそろ終わりにかかるとはいえ、この寒さではまだ、人間にはとても真似できない。
「途中まで一緒に行くでしょ」
「そうするぜ」
 にとりは空を見ながら流れていく。魔理沙は岩伝いに跳んで行く。それでもやっぱり流されて行くのが速い、少しずつ距離の離れていくにとりを、魔法で加速しながら必死に追いかけていると、
「河童の川流れって言うけどさーあ」
 と楽しげな、後の間延びした可愛らしい声でにとりが言った。
「流されるままになるのも、けっこう気持ちいいもんだよ」
「夏なら私もそうしたいけどなあ」
 遠く呼びかけるように答えながら、魔理沙はにとりの言葉に何か言い得ぬ不安を感じていた。しかし何を気がかりに思ったのか、よくわからない。
「岩にぶつけるなよ」
 と声をかけてみたものの、胸によぎった不安を払拭するには、どうにもぴったりこない気がする。
「へーきへーき」とにとりは答えた。

***

 魔理沙が立ち会いに呼ばれたのは、さっそく次の日のことだった。昨日の今日で話はまとまったらしい。細かいところを残して、あとは契約ひとつというところで、にとりは忠告通り魔理沙も交えてと希望したところ、霊夢は苦い顔をして必要のなさを訴えたものの、そこは親友との約束、懇々となにを諭されても譲らなかった結果、魔理沙の思惑どおり契約は三者立ち会いのもとと相成ったのである。
「はい、これで出来上がり」
 そうして魔理沙の監督下、三人で覗きこんだ畳の上の紙切れに、ぽんと景気のいい音で判がまあるく捺されると、霊夢はぱちぱちぱちと手を叩いて、
「会社設立、おめでとう」
 いつものだるそうな口ぶりで、言った。
 魔理沙もつられて「おめでとう」と言った。何か興味深い現象を見たときのような、へえ、という意外そうな表情をしていた。にとりはぽかんと口を開けて、
「これだけ? なんかこう、立派なものじゃないにしろ、部屋とか机とか」きょろきょろとあたりを見回した。
「会社ってのは書類なの。この紙切れ三枚が会社なのよ」
「これがねえ」
 会社と呼ばれた三枚の紙きれを、魔理沙は拾って灯りに透かしてみた。細かい字で細かいことが、しきりに書き込まれている。文字また文字で、あらためてみる気も起きないほどみっちりだ。
「じゃあ、仕事はここでするのか?」
「そうよ、神社兼オフィス。オフィス代タダ」
「なんだかなぁ」
「いいの。そんな設備ファシリティなんかより、人手パシリてのほうがずっとたいせつなんだから。魔理沙、お茶淹れてきて」
「へいへい」
 いつもの茶箪笥に仕舞われているのは、扱う手が思わず震えるほどの超高級緑茶だ。この缶をひっくり返したら二万円か、信じられんな――と魔理沙は口許を歪ませた。そうして淹れたその場で一杯飲みきると、もういちど三杯満たして運んで行った。
 書類は魔理沙の座布団の前に丁寧に重ねられていた。二人は明るい縁側へ寄って、白紙を一枚あいだに挟んで何事か交互に書き込みながら相談していた。
「商号登記は『株式会社にとりん』ね」
「私の名前、そのまま使ったらダメなの?」
「外の世界には外の世界の事情があるのよ。言う通りになさい」
「はあい」
 大切なことは、とんとん拍子でまとまっていく。楽しげに話しあう二人を横に見ながら、魔理沙はひとり契約書類に目を通していた。
 ぎゅうぎゅうに詰め込んだ紙面、詐欺のよくある手口とばかり思っていたがあながちそうでもないらしい、ひとつひとつ読んでいくとなるほど必要事項ばかりだ。それならもっと枚数を増やせばいいじゃないかと思ったが、そこはさまざま煩い規則があるのだろう。実際、魔理沙も口で言うほど霊夢を疑ってはいなかった。表面を撫でる程度にさくさく目を通していく。危険な条項も無し、怪しい注意書きもなし。
「問題ないぜ」
 魔理沙は書類を霊夢に渡した。書類はすぐに茶封筒に仕舞われて抽斗に消えた。チェックが終わるころ、話もまた終わったらしい、三人はぴたと顔を見合わせて、はははと疲れ気味の笑いを浮かべた。
「それじゃあ今日はここでお開きにしましょうか。おつかれさま」
「ああ、正直目が疲れた」
「じゃあね霊夢、また明日!」
 にとりはいかにも満足したふうに、ぴんと声音の後を張って、楽しげに帰って行った。神社はにわかにしんとした。
 二人とも、外に降りた。
「で、この話、クリーンなのか?」
「あたりまえじゃない。妙なことしなくたって、十分儲かるおいしい話だもの。私は外で誰も知らない技術と機械をひっさげて人脈作り金作り。あの子はそれで研究開発資金をたんまり手に入れる。いわゆるひとつの互助関係よ、それも見事な形のね」
 霊夢は頭の後ろに腕を組んで、いかにもこれで一仕事終わりとばかり、ふらふらと賽銭箱へ近づいて行った。そうして前に立つなり下の方をがつんと強く蹴とばした。からからと、硬貨のいくつも跳ねる音。
「四百七十円か」
 ちっ、という微かな音が風に紛れて飛んで来た。

 ここでこの後の霊夢の手腕について、ごく簡単に触れておくべきだろう。
 にとりの光学技術の粋を尽くした立体映像の空中投影テクノロジーにより、霊夢は、指定区域の空に広告を浮かべるという一大ベンチャービジネスの投資契約を早速取り付けた。そこそこ名の知れたベンチャーキャピタルから数百万、数千万の投資を受けたとも言われるが、正しい額は定かではない。そのほかの外の世界でいまだ知られぬ技術もすべて、騒ぎを起こさない程度に手を変え品を変え上手く市場に溶かしていったらしい。まったく見事なテクノロジーロンダリングの手腕であったと、当時のステークホルダーは口々に語る。
 何はともあれ、うまくやってるようだ――魔理沙にしてみれば、それで十分だった。にとりは今ごろ、たんまりあてがわれた資金にうっとりしながら、日夜大好きな研究開発に明け暮れていることだろう。
 クリーンだ。染みひとつ見当たらない。何も心配することなんかなかった。
 それに霊夢はああ見えてまんまるい心の持ち主だ。万事丸く収めることにかけては誰よりも信頼できる。大団円の錬金術師。どんな厄介な状況にあっても、きっとお互いうまくいくようにそつなく舵取りするだろう。
 一方にとりはにとりで、いつも体よく愛想よく事なきように振る舞っているようで、嫌なことにははっきり嫌だと言える自己主張も持ち合わせていることを知っている。芯のところはちゃんといい意味でわがままだ。
 案外いいコンビかもしれなかった。いや、いいコンビにちがいない。またひとつ幻想郷に伝説が増えるかもしれないな、と魔理沙は思った。そうだ、長続きするにせよしないにせよ、そこに霊夢がいる限り、絶対に悪い結果になりはしない――。
 ただ、音沙汰の少なくなったことだけが、拭いきれぬ不安の影だった。

***

 ある日、魔理沙はいつもの河原で、にとり社長と久しぶりに対面した。すこしやつれていたが、働き詰めの時期にはよくある程度の、健康な範囲内だった。
「調子はどうだ。ちゃんと食べてるか?」
「うん。栄養管理、体調管理は霊夢がばっちりしてくれるから平気だよ」
 にとりは自信満々に言った。たしかに杜撰な生活をしているようには見えなかった。けれども口ぶりと目元の様子に、あまり寝てないな、と魔理沙は見て取った。心配をかけたくないから言わないだけだろう。
 とはいえ、自分自身楽しくて仕方なくて、それで寝ていないというのなら、それくらいは大目に見るべき睡眠不足だ。まだ何もわからなかった。煩いアドバイスを振り回すには、時期尚早という気がした。
「霊夢はどうしてる」
「元気だよ」
 にとりの表情に軽い変化が差した。暗さはない。
「そうか。お前も、無理は厳禁だぜ」
「わかってるって。それにたいへんだけど、やりがいはあるよ」
「何してるかは、まあ、秘密なんだろうな」
「うん、ごめんね」
 大丈夫、いつものにとりだ。
「いいさ。それより、たまにはここにも帰ってこいよ。もう少ししたらあったかくなるし、河童の川流れってやつを、ひとつ私も教えてもらいたいからなあ」
 ところが以来、どこを歩いても、ぱったりとにとりの姿を見なくなったのだった。

***

 五月が去った。じめじめした六月が過ぎ、ようやく額に汗の浮かぶ七月になっても、魔理沙はあの日以来、ついぞにとりと会わなかった。
 ときどき神社を訪ねても、出迎えがないか、あっても霊夢一人だった。にとりの様子を尋ねれば、元気でやってるわ、でも今は忙しいから、というお決まりの返事だった。当然のように中へは通してもらえなかった。いつでも事情は変わらなかった。
 そうしてしぜん神社から足が遠のいて、どうしただろうと思いながらも、自身もめいっぱい楽しみたい夏のこと、アリスやチルノとばかり遊んで暮らしていたら、いつのまにか蝉も鳴かなくなって、九月をめくり、十月を数えて、やがて白いものが降りてきても――とうとうにとりの姿をいちども見ることはなかったのである。

 雲がちながら明るく晴れた、ある冬の日。ちょうど霊夢が神を超えたと豪語したあの日のような気持ちのいい空の下、魔理沙は例の釣り場にやってきた。そうして手頃な石に腰を落ちつけて、にとりの浮かんでいた川面をつらつらと眺めながら冬の冷たい風に吹かれていると、いよいよ不安になってくるのだった。
 読み違えたか? と魔理沙は自問した。にとりは今、どうしているのだろう。
 いくら芯が強くても人のいい彼女のことだ、結局は霊夢にていよくこき使われて、人知れず忍び泣きでもしてるんじゃないだろうか、それとも仕事の都合上、外の世界に連れていかれて既にこっちにはいないのか、などと思えば思うほど心配になってくる。いくら金のためとはいえ、にとりを陥れるような真似をする霊夢じゃないとは信じているが、何がどう絡んでいるかわからない以上、人も事態もどこへ転ぶかわからない。
 にとりの現状を把握するのが何より優先だった。このさい遠慮することはない、霊夢の出かけた隙を狙って、忍び込んでみればいい。
 そうだ、霧雨魔理沙、闖入はお前の十八番じゃないか――。
 その日の夕方近く、境内の砂利道へ降り立つと、魔理沙はそっと周囲をうかがった。あたりは一面暮れ方の赤さに森閑として、まるでどこにも人気ひとけがない。
 階段をあがり、忍び足に縁をまわっていく。音を立てるな、軋んでくれるなと祈りながら、慎重に、ゆっくりと客間の障子を開けて、隙間を作り、ふうと静かに息を吐いて、片目で中を覗き込んだ。薄暗い空間の真ん中に、人の姿が見える。
 にとりだった。楽しげに機械を弄くりまわしている。拍子抜けするほどいつもの姿だった。それなのに、何か見てはいけないものを見ているような気がした。何が異常なのかわからない。にとりは楽しそうだった。
「魔理沙、何してるの」
 突然、背後から声をかけられた。あまりのことに、心臓を釘抜きでぎゅっとやられたようになった。振り返ると、買い物籠を提げた霊夢が立っていた。平然とした様子だった。
「あ、ああ……いや、どうしてるかと、思ってな……」
 取って喰われるかとさえ思った一瞬の錯覚に、言葉が上手く出てこない。しかし霊夢はそんな魔理沙のぎこちない応答もさしては気に留めず、すっと脇を通り抜けて部屋へ入ると、「ただいま」とやさしくにとりに声をかけた。
「おかえり――」
 魔理沙はまたぎくりとした。手に汗が滲む。こちらを見上げたにとりの顔の隅々に、何か異様な気配が漂っていた。それは声をかけられるのを一心に待ちうけている路傍の物乞いのような姿だった。にとりは楽しそうだった、機械から手を放してもなお熱っぽい表情を崩さなかった。そうして他のどこにも逸らされることなく執拗に注がれている霊夢の眼差しに、身を乗りださんばかりに見入っている。
「おかえり、霊夢」
 蕩けるような甘やかな声だった。今までにいちどだって聴いたことはない。「にとり?」と思わず魔理沙は呼びかけた。返事はなかった。
「霊夢、けっこう進んだよ。これなら来月に間に合うと思う」
「偉い偉い。それじゃ、引きつづき頑張りましょ。先週は一二八時間しか、、、、、、、働いてないものね。挽回しなくちゃ……」
 にとりの顔からかすかな動揺を捉えるたびに小さく肩を震わせて、霊夢はひとことひとこと舐めるように、ゆっくりと、餌を垂れた糸を徐々に降ろしていくように、嗜虐的な調子で言葉を繋いでいく。
「今日は、また徹夜ね」
「うん」
 にとりは、その言葉をこそ待っていたかのように、いよいよ熱っぽくぞくぞくと身を震わせた。うっすらと涙の浮かぶその眸は、希望も苦痛も慰めも何もないまぜ、、、、に、ただ虚ろな至福に輝いている。彼女の目に、もはや魔理沙は欠片も映っていない。
 箒が手からすべり落ちて、板敷に落ちた。倒れる音も、なにも聞こえなかった。魔理沙はもう、なにもわからなかった。そうして≪お互いうまくいってしまった≫シアワセそうなふたりを、ただ呆然と、見ていた。
(2009年09月02日 「東方創想話 作品集その85」にて公開)

Zip版あとがき

軽いものひとつ、ということで久しぶりの霊夢さん。そしてにとり。何も言うことはありません。きっとどこにでもある普通のハッピーエンドです。めでたしめでたし。