なかよしのおまもり

 痛いほど眩しい。うっすらと目を開けた。
 天井は明るかった。小さな埃があちこちにぼんやりと光って見えた。足の向こう、窓の外は、秋の朝らしく快活に青い。いい日だ、今日はきっといい日に違いない。それなのにどうして私は身じろぎひとつできないのだろう? と彼女は思った。
 手足は動く。泳ぐような手つきで、布団を掻き寄せる。違う。起きるんだ、もう朝じゃないか。ぬくい布団を足で向こうへ押しやると、背中がいやに暖かい。そして柔らかい。白々とした腕が、自分のお腹のあたりを抱いている。もう一本の腕は、首だ。羽交い絞めに遭っているのか、と気づいた。ようやく少し眼が覚めてきた。それで、どうしてこんなことになってるんだっけ?
 ふわ、といい匂いがした。嗅ぎ慣れていたせいで、すぐには気がつかなかった。不吉な感じがして、はっと目が覚めた。頭の上が、あたたかい。……息?
「いただきます」
 がぶ、と、とてつもなく大きな、嫌な音がした。

***

「今日はまた綺麗に晴れましたね」
「そうですね」
「ここに来ていちばんの朝じゃないかな」
「そうですね」
「空気もよさそうだし、おひさまもほら、すごい眩しい。清々しいですね」
「そうですね。本当に清々しい。猛獣の口の中から命からがら逃げおおせた直後のような清々しさですね」
「耳が痛いです」
「こっちの台詞です」
「ごめん、ごめんなさいってば、ナズーリン」
 星の言葉もなかば無視して横目に見やり、縁にくっきりと歯形のついた、まあるい自慢の右耳をこれ見よがしに撫でながら、ナズーリンは荒っぽく窓を押した。がっと鈍い音がして、開かなかった。汚れた框に下枠がひっかかっていた。バシャンと拳骨で叩いて、無理やり外側に叩き出した。
 どこもかしこも粗末なつくりだ。ここに寝泊まりするようになってから、今日が四日目だった。
 命蓮寺からそう遠くもないこの場所で、こんな古びた建物に宿をとっているのは、もちろん一時的なことで、二人は今ささやかな旅行に来ているのである。
 星が半月もごろごろしていれば勝手に集まって来る程度の金額を予算に、一週間の予定を組んだ。幻想郷の地理や風土に馴染むため――と言えば目的志向で格好いいが、実際は主人の気まぐれ外遊へ、監視を建前にナズーリンが便乗したまでのことである。もっとも、便乗したナズーリンの方がずっと献身的にプランを考えた。たとえばこのボロ宿にしても、もっといいところを選ぶ金銭的な余裕はあるにしろ、短い期間なら敢えて不自由な施設で工夫しながら生活したほうがいっそう現地の雰囲気を楽しめる、外食したり自炊したり、ぶらぶらしたりどこへも行かなかったり、そんな自由も遠出の楽しみのひとつ、というナズーリンの意見を反映したものであった。星はそういう決定に全面的に同意した。というより、もともと何の主張もなかった。こういうことは全てナズーリンに任せておけば上手くいくと心底から信じている節があって、やはりいつもの調子で「お願いします、お任せします」であった。
 その結果がこの清々しい眺めだ。すうっといい風が入ってきて、やさしく頬にあたる。なるほど結構な日には違いない。灰色の長い尻尾がひょいと持ち上がって、ぱたりとまた畳に落ちた。
 時計を見る。八時少し前。
「ご主人様、朝ご飯は」とつっけんどんに聞くと、
「予定通り、外で」
 話の矛先が変わったことを安堵するように、いつものやわらかい口調で、星が答えた。
「じゃ、午前は別ですね」
「十三時くらいに戻ってきて、ここで一緒にお昼にしましょう」
「くれぐれもこの前みたく、お弁当と間違えて素飯だけ買ってくるようなことのないように、ご主人様」
「あれはちょっとうっかりしてただけで、それに包装もなんだか紛らわしくって」
「くれぐれも」
「しっかり気をつけます」
 どこかふわふわした返事に、ほんとにわかっているのやらと心中ひそかに毒付きながら、ナズーリンは机に地図を広げた。ここには何があった、ここで誰と会った、そんなことをこの四日間、少しずつ二人で書き込んでいった旅行地図だ。真っ白になっているところは、まだ訪ねていない区域である。その一角に、星が指先でくるりと丸を書いた。
「私はこの竹林の方を巡ってみようと思ってます。ぐるっとまわって一時間くらい。それからこのあたりに優秀な医者が住んでいるとかいないとか。中に入って探す時間まではないかもしれませんけど、運よく見つけられればいずれ何かと助けになるかもしれません」
「まさに今とかね」
「ナズーリン、どうしたら機嫌直してくれますか」
「痕が消えたら」
 ナズーリンはからかい気味に言った。けれどもちらと相手の顔色を窺うと、「すぐに消えますよ」と付け足した。
「ね、まだ痛みますか? あとで甘いものでも買ってあげますから、勘弁してください。そうそう、昨日の夜に食べた焼饅頭、おいしかったですね」
「ん。あれは大当たり」
「さっきは、あれの夢を見てたんです」
「そうですか」
「機嫌、直してくださいね」
 星はそっと手を伸ばして耳の痕を撫でた。そういう何気ない動きはいつも自然で、どこにもわざとらしさがなかった。ナズーリンは一言も答えずに、じっとしていた。星はそのじっとしているというのが、許されたと知れて嬉しいらしかった。
「そうだ、私のお昼も一緒に買ってきてください。それなら安心です。お任せします」


 昼、二人が部屋に戻ってきたのはほとんど同時だった。ちょうど星が上着を脱いで畳にくつろいだところへ、ナズーリンは両手にいっぱい袋を抱えて上がって来るなり、
「えらい上機嫌な神様がブドウと干しブドウと種なしブドウくれたけど、こんなにたくさんどうしろって言うんだろう」
 と独り言のように言った。
「よかったじゃないですか。でも、どうします?」
「このへんは今日か明日に食べないと」
「それじゃあ、今晩は自炊にしましょうか」
「そうですね。干しブドウは持って帰ってもいいでしょう。それにしてもよくこんなでっかいのが育つもんだなあ」
「何か特別な育て方をしてるのかもしれませんね」
 ナズーリンの買ってきたお揃いの生姜焼き弁当を食べながら、午後の予定を話し合った。出発前に定めた観光はもうほとんど消化し尽くして、あとは自由な散策が多くなる。午後は一緒に行動することになっていた。
 遠くに出るか近場を回るか、それが問題だ。地図の上をなぞりながらかんかんやっていると、ふいに星が何か思い出したように顔を上げて、
「そうだ、私いいもの買ってきたんです」
 と放り出した手提げのバッグを探り、白いふわふわのついた小物を取りだした。
「じゃーん。霊験あらたかな兎の尻尾、幸運のお守りです」
「ふーん」とナズーリンは、淡泊にそれを眺めやった。土産物屋にありがちな、いたってふつうのキーホルダーだ。「いくらだったんです?」
「竹林の近くに出店があって、そこで買ったんです。面白そうなアクセサリーがいっぱい並んでましたよ。いかにも掘り出し物のギャラリーという感じで」
「いくらでした」
「お店の人が言うには、兎の尻尾は人気のわりに凄く貴重でなかなか手に入らないし、手に入ったら入ったですぐ売れちゃって、滅多に在庫が」
「で、いくら」
 このトーンの落ちた、ぴしゃりとした物言いに怯むと、星はちょっと思いだすようなしぐさをして、やがてごにょごにょと小声で額面をこぼした。ナズーリンの口許がひきつった。
「はたきますよ、ご主人様」
「や、やっぱり、高いですか……?」と星は上目遣いに部下を見る。
「高いどころの騒ぎじゃありません。詐欺です。ダウジングロッドが十本買えます。言っときますけど、ロッド一本でチーズ一年分は買えますからね。この旅行二回分はありますからね。ご主人様、ちょっとそこに座ってください」
 お説教はしばらく続いた。財宝の集め過ぎですっかり狂ってしまった星の金銭感覚の矯正は、並大抵のことではない。金持ちの贅沢感覚というよりは、純粋な金銭感覚の無さである。生まれてこのかた、お金に困ったことなどただの一度もないだろう。それでいて使うことも少ないから、ますます疎遠になっていくのである。
 ナズーリンは頑張った。得体の知れない尻尾ひとつにそれだけの大枚をはたくのが、どれだけ釣り合わないことであるかを、繰り返し繰り返しとくとくと言い聞かせた。やがて終わりに、
「そういうわけで、今すぐ払戻しに行ってきてください」
 と言いつけると、星はさすがにしゅんとした様子で、
「そうします」と言った。
「早く帰ってきてくださいね、ここで待ってますから。そうだ、どうせならついでに夕飯の材料も買ってきてください。必要なものは今メモしますから。とりあえず今日はもう、遠出はやめにしましょう」
 こうして予定も一緒に決めてしまうと、ナズーリンはささっとメモをしたためた。星はそれを受け取ると、書かれた項目を復唱しながら、とぼとぼと元気のない足取りで出て行った。主人のその頼りない後ろ姿に、なんだかな、とナズーリンはため息を禁じ得なかった。

***

「聞いてくださいナズーリン。兎の尻尾、いつも一緒にいる人とお揃いで持ってると凄い効き目があるって、同じ物をもうひとつ、なんと二割引きで売ってくれたんです」
「どつきますよ、ご主人様」
 ナズーリンはロッドを持ちなおして、きょとんと目を丸くするご主人様に詰め寄った。「W」の尖ったギザギザを顎先に向けると、星は一歩あとずさって、
「ナズーリン、自分の分が無かったから、拗ねてるんじゃなかったんですか。とりあえず、Wは勘弁してください、Wは! せめてSに……」
「拗ねてるって? 誰がそんなことを?」
「怒られたって言ったら、お店の人が」
 すっかり丸め込まれた様子である。胃が痛い。頭が痛い。あの説教は何だったんだ? ナズーリンはロッドを降ろすと、肺の中の空気をすべて押し出すように、深く深く下向きの息を吐いた。
「それ、二つとも貸してください。私が行ってきます」
 手を差し出すと、ふわふわの尻尾がふたつ、おずおずとその小さな手のひらに乗せられた。そうして星は畳に膝をついて、さっきの地図を指しながら、
「このあたりです。このあたりに、竹林に入っていく石の階段があるんですが、その手前にいます。向かいに大きな木造りの案内板があるのですぐにわかります」
「店主の外見は?」
「あなたよりすこし小さいくらいの、ミルクみたいに白い兎耳をした子で、ピンクの服を着てました。ちっちゃな人参か何かのアクセサリを首から下げてたような」
「それだけわかれば十分です。留守番頼みますよ、ご主人様」


 ところがその場所にやってきてみると、すっかりもぬけの殻だった。背後に竹林、石階段に、辺りの道の案内板と、言われたとおりのロケーションに、ぽっかりと出店の姿だけがない。
 なるほどいかにも詐欺師らしいやり口だ。教科書通りといったところか――ふん、とナズーリンは傲慢そうな笑みを浮かべると、
「私が来て正解だった」
 高価なロッドをぴしゃりと構えて、真剣な目つきに神経を研ぎ澄ませながら、竹林の奥へ続く階段を登って行った。

***

「お前だな、そこのちっちゃいの」
 ナズーリンが探し物を見つけたのは、もうだいぶ竹林も深く、丈の高い竹ばかりに囲まれた、古風な作りの立派な建物の裏庭であった。東へ東へと彼女を引っ張ってきたロッドの先のEは、いま庭先で涼んでいるピンクの服の兎耳をまっすぐ指しているのだった。
「んー、なんだいちっちゃいの」
 と兎は足をぶらぶらさせながら、言った。
「うるさい。お金、返してもらおうか」
「何の話? 心あたりがありすぎてさぁ」兎は動じた様子もなく、くくっと笑う。
「これだよ」
 ナズーリンは生垣を越えて、勝手に庭へ入って行くと、掴んだ兎の尻尾をぐっと目の前へ突き出した。垂れ下がった二本の白い房が、通り過ぎる風にふわふわと揺れる。
「ああ、なんだ」
 兎はそれを見るなり、またくくくと押し殺したように笑った。そうして、
「ってことは、あんたがあの虎柄さんを叱ったっていう殊勝な連れだね。カワイイご主人様じゃないか、大切にしなよ」
「いいから黙って返しなよ」
「お引き取りください、って言ったら怒る? 一応私もまっとうな商売したつもりなんだけど、って言っても、その剣幕じゃあ聞いてもらえないかな」
「御託はいいから返せってば。君には言葉が通じないのかい」
「わかった、わかった。でも悪いことは言わないから、やっぱり一度帰りなよ。親切心で言ってるんだよ、私は」
「人を騙しておいて、訴えにも取り合わないで、どこが親切なのさ」
「そうつんつんするもんじゃないってば。まあ、ひとつ質問にくらい答えてくれてもいいじゃない。それはほんとに要らないの?」
「要らない。いくらなんでも、釣り合わない」
「ご主人様には聞いてきた?」
「必要ないね。要らないものは、要らない」
「必要ない? 要らない? そんなことわからないじゃん。少なくとも片方はわからないね。ご主人様、本当にそれが欲しかったのかもしれないよ。兎の尻尾が貴重だって言うのは本当だからね。アクセサリーとしても高価だし。ましてやお揃いになったときなんて、凄い喜んでたんだから。二人で持ち歩くの、楽しみにしてたかもよ? そりゃあもちろん、全然そんなことないかもしれない。でも、もしかしたらそうかもしれない。ね、そういうわけで、騙されたって気持ちはわかるけど、独断でつっ返しちゃうのはどうかと思うな。せめて本当に返してもいいかどうかくらい、本人に聞いてからじゃないと……どう、私の言ってること、そんなに的外れかな」
 ナズーリンはぐっと言葉に詰まった。詐欺師のくせに痛いところを突いてくる。それとも詐欺師とはそういうものか、自分も言葉巧みに丸め込まれようとしているのか、よくわからなかった。
「そうやって、誤魔化して有耶無耶にする気?」
「さっきも言ったけど」兎はずるそうに、にやりと笑った。「ほんとに要らないならお金は返すよ。それくらいはフェアに行かないとやってられないからね。ただし忘れた頃に蒸し返されても困るから、明日の十七時までに決めてもらっていいかな。それまでは待っててあげるよ、ここで。期限までにそれ、またここまで持ってきたら、お金は全額返したげる」
「信用できないな」
「約束は守るよ。第一ここ、私の家なんだけどな。家までバレてて、騙すも何もないと思うけど。――ほら、夕飯呼ばれてる。じゃ、そういうことでまた明日ね」

***

 相手に一理も無かったら、すごすご帰って来たりはしない。噛み付いてでも取り返して来た。
 しかしなるほど確かに一理はあるな、とついさっきまでのやりとりを思い出しては頷きながら、ナズーリンは竹林の細い道を下って行った。不思議と気分がよかった。やりこめられたとはちっとも思わなかった。落としものを後から呼びとめられたような、ほっとした心地が勝っていた。勢いまかせでご主人様の意見を蔑ろにしてしまったのは、紛れもなく自分の落ち度だ。落ち度はちゃんと埋め合わせてからでなければ、強く出るにも出られない。ふん、確かにそうだ、とナズーリンは一人笑った。≪ちょっとした気づき≫とか≪ささいな成長≫とか、そういうものを特に好む勤勉な性格の、彼女らしい受け取り方だった。そうしておよそ言い負けて来た態度とは思われぬ陽気な様子で、ロッドの先を揺らしながら帰ってきたのだった。
「ただいま。居なかったから、探して見つけてきたよ」
「おかえりなさい、ナズーリン。何かいいことでもあったんですか?」
 変化に気づくのは、本人よりも星の方が早かった。
「ん。ああ、まあね」
 ナズーリンは取ってつけたように言った。機嫌がよくなるととっさに丁寧語を忘れて、主人への言葉使いがぞんざいになるのは、長い付き合いから生まれた惰性の習慣だ。今更どちらもなんとも思わないし、星などはそういう変化をむしろ嬉しがっているようで、今もさっきまでしょげていた影はどこへやら、ぱっと明るい顔をしている。まっさらな子供みたいだ、とナズーリンは思った。エプロンがちっとも似合わない。
「でも、訳あってお金はまだ返してもらってません」
 そうして一通りのいきさつを話すと、星はなんともいえないという表情をしながら、ナズーリンの手にある兎の尻尾を眺めやって、
「そうですね、お揃いはちょっと素敵でしたけれど……やっぱり、それは返しましょう。お揃いなら他にいくらでも作れますし、とにかくこういう浪費癖をつけちゃいけない。そうでしょう、ナズーリン」
「そういうことです」
 無理をする様子もなく快活な星の調子に、ナズーリンはほっとした。お説教が実を結んだらしい自戒の言葉も嬉しかった。
 これで万事解決だ。――そう思った矢先に、もくもくと主人の背後で煙が上がっていた。
「ご主人様、火!」
 夕飯はナズーリンが作り直した。鍋は捨てた。


 灯りを落として床につくと、しばらくして、
「もしかしたら例の竹林の医者って、あの建物のことかも」とナズーリンが暗闇に洩らした。
「それじゃあ御挨拶に行かないと」まだ起きていた星が、暗闇に答えた。「明日は私が行きましょう」
「私も一緒に行きますよ」
「あなたは挨拶とかそういうの、嫌いでしょう?」
「ご主人様一人じゃ、もうひとつの目的が心配です」
「大丈夫。今度は誓って、ちゃんと払戻してもらいます。それに二回も往復させるのは、なんだか悪いですし」
 一瞬、静かになった。それだけで不気味なほど静かになった。沈黙が闇に溶けるのは、驚くほど早い。
「起きてから決めます」
 ふいにナズーリンは今朝の出来事を思い出した。耳の痕が気になった。そうしてあのとき、本当はもっと早くに目が覚めていたのに、抱かれているのが気持ちよくて、またそのまま眠ってしまったことを――今、思い出した。そうするとあの事件も、一概に主人ばかりが悪かったわけではない。
 もしかすると同じあのとき、ご主人さまも本当は起きていたんじゃないだろうか。そんな疑いがふつと心の底に湧いてきた。湧いて、泡のようにすぐ消えた。そうして、星はどこまで自分のことを見透かしているのだろう、と思った。よくそんなふうに思うことがある。思うたび、いつも何もわからなかった。けれども、深くさぐる必要もなかった。主人のほうで何も見透かしてないように振る舞ってくれるなら、黙ってそれに甘んじているのが、なんと言ってもいちばん気持ちがいい。
「ご主人様」微かな声で、沈黙を揺らす。
「はい」と眠そうな声が返って来る。
「今日もおいしい夢、見そうですか」
「そんな気もしますね」
「じゃ、もっと離れて寝てください」
「ええ、そんな」
「……冗談です」

***

 目が覚めると、隣に星は居なかった。早いうちに出かけたらしい。もしかしたらそのとき起こされたかもしれないし、そっと出て行ったかもしれない。どちらにしても記憶がなかった。
 掃除をしたり荷物の整理をしたり、身の周りのことに時間を使ってしまうと、いよいよやることもなくなってごろごろしていた。思ったより時間がかかっていた。挨拶が長引いているのだろう。やはり行かなくてよかった、とナズーリンは思った。万が一にも客間なんかに招かれて、もてなしのお礼に愛想笑いなんて、まっぴらごめんだ。それより、目的はちゃんと達せられただろうか。またあの兎に言いくるめられていないだろうか。そうしたら五時までは時間がある、私がもう一度出張ればいい。星が帰ってきたら、今回のことはもう一度釘を刺しておこう。今日の昼過ぎは何をしよう。晩ご飯は……そんなことを取り留めもなく考えているうちに、やがて昨日の自分のような大荷物を抱えて、星が帰ってきた。
「おかえりなさい」ナズーリンは畳に寝そべって、考え事をしていた姿勢のまま出迎えた。「ちゃんと返してもらえましたか」
「はい、ちゃんと全額。話しやすくて、いい子ですね」星の表情は晴れ晴れしている。
「私はまた、キャンセル料でも取られると思いましたけどね」
 ナズーリンは意外そうに言って、
「まあでも、今回のことは……」
 と言葉を繋ごうとすると、星はそれを遮るように、缶やら瓶やら御菓子やらが覗いている袋をどさっとテーブルに置いて、
「それで……今日は外に出ないで、ここで一緒に飲みませんか。ほら、ナズーリンの好きなお酒とスモークチーズ、買ってきましたから」
 こう言われると、改めて釘を刺そうとしていた計画も、すっかりどこかへ行ってしまった。固く結んだ口の端が緩んで、にへ、となってしまった。もうだめだ、厳しい私はおしまいなんだ、とナズーリンは思った。
「私が切るから、ご主人様はテーブル拭いて、グラス」
「はい」
 本当に好物ばかりだった。干しブドウもつまみにちょうどいい。結構な役得だ――ナズーリンは、この二日の出来事に満足していた。旅の経験というやつは、ちょっと思うところがあったなあ、くらいがいちばんいいのだ。ご主人さまも今度の一件でごたごたしたから、その程度に反省もしただろうし、自分は自分で≪ちょっとだけ≫思うところがあった。これもまた旅のひと日にありがちな、身辺再発見ってやつだ。素晴らしい旅行に、乾杯。
「でも、今日行ってよかった。あの子、やっぱりいい子だと思いますよ」
 もう頬にほんのり赤みを潮して、星が言った。
「ふうん?」
 首を傾げる。とてもそうは見えなかった。
「どのへんがですか」
「嫌な顔ひとつしないでお金は全部返してくれたし、ちゃんと謝ってもくれたんですよ。おまけに」
 星の言葉を聞きながら、ナズーリンは、膝もとに横たえたSのロッドをぎゅっと握った。
「――騙したお詫びにって、身近な人ともっと仲良くなれるというこの本物の、、、お守りを、特別に四割引きで売ってくれて――どうしたのナズーリン、そんなにこにこして」
「歯ぁ食いしばれ、ご主人様」
 耳の痕は、もう消えていた。
(2009年09月02日 「東方創想話 作品集その86」にて公開)

Zip版あとがき

このふたりのあまりの微笑ましさに、居ても立ってもいられなくて。