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ある晴れたアメリカの夕方、外遊びの日和。家の前で待つお母さんのところへ、子供がとことこ帰ってきた。「どこへ行ってたの」「そと(Out.)」「何をしていたの」「なにも(Nothing.)」▼鈴木大拙はこの会話のうちに禅を見た。飛んだり跳ねたり走ったり、めいっぱい運動をして汗をかいて、お腹が空いたら帰ってくるということは、子供にとってはなんの大変なことでもない”Nothing.”なのだ。これこそ「無」の極意である、と彼は言う。近代日本最大の仏教学者の慧眼だ。ひたすら得難い「無」の意は案外、本当にこんなところなのかもしれない。▼たてはなに「二つ真」という、一つの器にシン(真)を二本たてる形式がある。水際からすらりと伸びた二株のシン、しかしこのたてはなで真に見るべきは、左右二株の間にある「無形のシン」であるという。そこに空虚があることで全体の調和が保たれるのだ。無とはまさしくあってないもの、なくてあるものなのである。
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