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クラシックのステージと客席のあいだには明確な「線」がある。高い段差という物理的な境界と、「奏者」と「聴衆」と隔てる概念的な境界だ。そこに溶け合う融通はない。しばしば聞かれる「演奏はコミュニケーションだ」という主張も、常に奏者からなされるものであることに注意しよう。実感の伴わない哲学の衣を脱ぎ捨てたとき、ほとんどの良き聴衆にとって、コンサートの視聴は対話ではないはずだ。(そうでないというのなら、私が間違っている。)▼わたしたちは演奏する人、あなたたちは聴く人。選民思想にも似た意識の強い一部の人々にとって、演奏とは守られた聖域に腰掛け浸る排他的なデカダンスなのだろう。どんな形式のコンサートにも当てはまることだが、とりわけそれはクラシックの世界で顕著なように思う。嫌なことだが、反面、サンクチュアリを頑なに守り抜いてきたからこそ、巨大な商業主義に取り込まれることなく生きつづけているのかもしれない。
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