2006年06月29日

●第一回/教養とは何か

我がサークルの根幹にも関わるテーマ。ありがちだが、ありがちということは決着が付きづらいということでもある。
教養とは何だろうか。何が教養と呼ばれ、何はそう呼ばれないのか。それは完全に主観によるのか、それとも何らかの客観的基準があるのか。一般教養とは? 常識とは何が違うか?

6/27の「テーマ別雑記」のせんどの反応を受けて面白そうだと思ったテーマ『教養』を抽出。世の中には(特に古い人間には)現代人は「教養不足」だと指摘する人が多い。それは本当なのか。我々には彼等からみて何が足りてないのか、それとも彼等の思い込みにすぎないのか。
教養の姿を捉えることで、こういったことも明晰に見えてくる。かもしれない。

コメント

感覚的に言えば、
『算数は教養で、数学はエンターテイメント』
『国語は教養で、現代文・古文・漢文はエンターテイメント』
こんな感じ。算数も国語も生きていくうえで必要になるとは思うが、数学や古文等々はそうとは思わない。
その感覚の上で、経営をやりたい人にとって数学は教養であると思うし、放送関係に進もうと思っている俺にとっては物理・政経あたりは教養になってくるのだと思う。

ここではないところにくれたStickのコメントにも答えてひとつ。

教養とは情報を「受ける」から「投げる」に転じるときにしか起こりえないとすると、それでは「投げられた」情報がエンターテイメントか教養かを判定することは不可能ということになる。また、次のようなことも考えなければならないのではないか。

>アニメの場合で言うと、アニメーションそのものはエンターテイメント。それを見て自分が得たものは教養。

例えば見たものについて趣味を同じくする友達などと面白可笑しく話をするのは「アニメのエンターテイメント」の一環ではないか? という考え方もできる。RPGもそうだが、大抵のエンターテイメントというものは、経験そのもの(”一次的情報”。例えばRPGの場合「画面に向かって物語を進める」)は閉じていても、その情報を他者と共有する(”二次的情報”。「攻略本に載っていない情報を発見する」「どこまで進んだかを話す」)という外に開いた性質を持っている。私達がエンターテイメントから「精神的にプラスの何かを得る」のはこの二次的経験によるところが大きいのではないだろうか?

>一般教養というのは以上の議論で扱われている情報とはまったく異質のもの。言葉or文字で伝える際にあまり劣化しない情報(例えば言葉の意味、数学の定理など)のうち、大多数の人間に知られているor信頼を寄せられた組織に保証されている情報は、(一般かどうかはさて置いて)「教養」としての地位を与えられている。

大多数、という集団をどう規定するかが問題になる。例えば「現代人は教養不足」という場合の教養とは、今が現代である以上どう考えても教養ではない。現代人が共有していないのだから。それでは誰がそれらに「教養の地位を与えている」のだろう。
「言葉or文字で伝える際にあまり劣化しない情報」「大多数の人間に知られているor信頼を寄せられた組織に保証されている情報」というのも一見正しそうだが、よく考えてみると怪しいところもありそうだ。例えば「月は毎夜昇る」は上の全てに当てはまるが、教養だろうか(一見くだらないが、上の議論においては論駁されていない反論だと思う)。しかも月が毎夜昇るかどうかについては、帰納的な論証以外し得ないというのに! また「科学」の立場はどうなるだろう。科学はエンターテイメントではなく教養かと言われると、いまひとつぱっとした答えが出ない。はい教養です。エンターテイメントなどでは決してありません、というのも素っ気無くはないか……?
このあたりは「常識」「雑学」といった教養の類似品が顔を出さねばならないところかもしれない。

>エンターテイメントであるか否か、教養であるか否かは別問題であって、ある事物が教養かエンターテイメントか?という二者択一はナンセンス。

二者択一では恐らくないだろう。ただ、考えたいのはそれではどのような関係なのかということだ。教養且つエンターテイメントという領域は存在するのか。あるいは、エンターテイメントではないが教養であるような領域はあるのか。どちらでもない領域は?
また、厳密にはもちろん「別問題」かもしれないが、同じものが「教養」と呼ばれたり「エンターテイメント」と呼ばれたりして、且つこの両者間でしばしばコンフリクトが起こっている現実がある以上、この議論の場で「別問題」と片付けることはできない。気長に行こう。

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