2006年06月01日

●ショウペンハウエル『知性について』

哲学とその方法について

(十五)われわれの見解と対立するような他人の見解に対してみずから寛容な態度を養い、異論に接して忍耐を学ぶ工夫としては、おそらく次の工夫ほど有効なものはないであろう。それはすなわち、われわれ自身その同じ主題について相次いで反対の意見を抱き、こういう相反する意見を、時としてはごく短日月の間にさえ、幾度も取り替え、そしてその主題が時にはこの照明を浴びて現れ、やがて次にはあの照明を浴びて現れるにつれて、あるときは一方の意見を、また他のときにはその反対の意見を、あるいは排斥しあるいは採用してきたということがいかにしばしばであったかを想起してみることである。同様にまた、他人の意見に対してわれわれが提出する異論に彼の耳を傾けさせるには、「前には私も同じ意見をもっていたのだが……」という言い方ほど適切なものはない。

あるひとつの意見が、それに対立するものや関連するものをすべて吟味・経過した上で得られたものか、ただ単に気まぐれの思いつきなどで他の意見の考察なしに得られたものかの差はあまりに大きい。仮にその見解が述べることの確からしさは等しくとも、説得力という点では圧倒的に後者は劣る。自分自身、その意見が事象をどのように説明しているものなのか、事象の理解にどのように役立つか、そういう全体とのかかわりが全く見えていないからだ。そういう習慣が甚だしくなればやがて世の中を一点透視法でしか見れなくなる。いわゆる視野狭窄を引き起こすのである。

(十八)われわれの先人思想家たちがすでに見出していたことを、彼らに依らずに、またその事情を知るよりもさきに、自分自身の力でみずから発見することには、大きな価値と効用とがある。なぜなら、われわれは自分で得た思想を、他人から習得した思想よりも、遥かに深く理解するものであり、そして後になってそれをあの先人たちのもとで見出すときには、期せずしてその真理性の有力な証拠を――広く認められている他人の権威によって――得るのである。われわれはこのことによって、それ以後いかなる異論に対してもそれを擁護する自信と恒心とをかちうることになる。

彼の思想は、その完成度にこそ差はあれ、著しく私の思想に被るところが多い。この偉大な哲学者と同じことを考えていたとは、素直に嬉しい気持もあるが、それにしても短い人生とはいえ自分なりに発見して絶えず育ててきた思想が、既にほぼ余すところ無く既に書物に記されていたとは、と悔しくも感じていたのが正直なところだ。しかしこの十八番に至り見事に解決した。誰かがあてもなく彼の著作を読んだのと、彼の思想を予めおおよそ理解していたものが彼の著作を読んだのでは、明らかな差があるのだ、と彼自信はっきり言ったのだ。これを私が受け入れない理由はない。やはり彼の思想に行き当たったことは幸いであったと改めて思った一説である。以下、それに続く一文。

これに反して、何かをまず書物の中で見出したという場合には、のちに自分の反省によって同じ結果が得られたにしても、これが自分の思考と判断によるものであって、単にあの先人たちの口まねや借りものの感想ではないということが、どうしてもしかと弁じえなくなる。ところがこのことは、事柄の確信度において大きな差異を生ずるもとになる。なぜなら、第二の場合には、ちょうど水流がそれに先立っていったものの水路に従いやすいように、ひとは先入観にもとづいてあの先人たちとともに正道からそれていたのかも知れないからである。二人がそれぞれ自分で計算して同じ答えが得られたならば、これは確実な結果である。しかし一方の人の計算を他方の人がただのぞき見たというのであれば、話は別である。

計算の喩えは極めて上手い。そしてこのことは、書物を読みはじめるのは若ければ若いほどよく、多ければ多いほどよいという誤謬を正すにもよい引用となる。若いということはそれだけ自分の思想がまだ育っていないということであり、得てして影響を受けやすいということである。そんなときに大量の――恐らくは現実的に大量の誤りもまた含んだ――書物を読めばどうなるか。結果は明らかである。


論理学と弁証法の余論
ショウペンハウエルの直感主義的論理学についての余論。ひとことで「ア・プリオーリに確実な真理に矛盾するものは排斥さるべし」という言葉に尽きる。実用的には(二六)の帰謬法の手続きや、詭弁を弄する輩の手口について、その見分け方と反撃法を解説している箇所が面白い。そのすべてが記されていないのが残念だが、挙げられた数例だけでも実に頷けるところが多い。

この戦術的な方向転換のもっとも巧妙なやり方は、論争の方向を少しずつさりげなく、もとの主題に似かよった論点へ、できれば、ただ観点がちがうだけで実際にまだもとの主題そのものにかかわる論点へ、ずらし移していくというやり方であろう。テーゼの主語だけをもとのままにしておいて、主題になっている論旨とは何のかかわりもない別な連関を引き合いにだして、たとえば、中国人の仏教について論じているのに中国の茶貿易に話題を移すというようなことになると、これはもうあまり上等なやり方ではなくなる。……(中略)……一体、この方向転換という手は、不正直な討論者たちが本能的に用いるあらゆる手口のうちで、もっとも愛用され慣用されているもので、彼らが窮地におちいると、必ずといってもよいほど出現してくるものなのである。

全く、何度これで苦い思いをしたことか。しかもさらに悪い場合には――彼はここで論じるのを忘れているか、或いは意図的に触れてはいないが――彼らは論点をずらしたことを決して認めない。それは多くの場合、意図的に自分を防衛しようとしているというよりは、本当に自分が論点をすり替えたことに気づいていないのだ。まさにそのすり替えという手段を窮地脱出のための”本能的”手段として用いているのである。改善の余地が見られない場合には、そのような人々とはあまり本気の論争をすべきではない。本当の意味での決着は決して付かず、結局のところ、根気負けした方が負けたような体裁になってしまうからである。柔道の試合に刃物やピストルを持ち込んできて、相手が降参したのを見て勝ち誇るようなものだ。得られるものは少なく、失うものは大きい。時間も無限にあるわけではないのだから、極力”話のできる”人と話をしたほうが有益であることは間違いないだろう。


知性について
本書の主題にもなっている章。百頁弱の中に、凡そ日常的に私たちが悩みうる知性についての解説はここにあると思ってよい。『読書について』でも言ったように、引用したい気持だけなら全文であるが仕方ない。(三一)(五十)より気に入った比喩をひとつずつだけ、引用しておこう。

すなわち、生命は周知のように一種の燃焼過程であるが、それにさいして発する光が、すなわち知性なのである。

(二九)で数頁に渡り時間と存在について語った後のまとめ。外部の物理世界における光を、ここでは内部の意識世界における知性に喩えている。彼自身それを奨めているように、なるほど直感的にはわかりやすい。

どんな楽器でも、空気の振動だけから成り立つ純粋な音に、なお自分の材質の振動の結果生ずる異質的な付加音を混入しないものはありえない。それというのも、空気の振動はこの材質の振動の衝撃によってはじめて生ずるので、それが副次的な雑音をひきおこすからである。……(中略)……さてこれと同様に、どんな知性でも、認識の本質的な、純粋に客観的な内容に、それと無縁な主観的要素を――すなわち、知性を支えて条件づけている個人性から生じてきて、従って何か個人的な要素を――混入しないことはありえない。そしてこのために、その認識の内容がいつも不純になるわけである。

もう少し砕いていえば”わかる”ことの難しさ、ということだろうか。何かの事象に対してわれわれがする認識というものは、われわれがする、といっている以上完全に個人的な作業であるから、そこには必ず主観が混じる。主観を交えないように、というのは何か意見を発するときによく言われることだが、それ以前に既に認識そのものが主観を帯びているのだ。彼はこのとき影響を受けなければ受けないほど「完全な知性」としている。しかし私が思うに、それは「よい知性」とは別物だ。極端な話、影響を全く受けないということはインプットとアウトプットが全く等価ということであり、従って外界とのかかわりという点から見れば、この中間要素である”私”に意味はない。外界のことを正しく、完全に客観的に把握したあるものが、それを正しく伝えたというだけの話である。楽器の喩えで言えば、それは何の振動も生み出さない楽器である。したがって音はでない。音が出ない楽器とは何であろうか。


物自体と現象との対立に関するニ三の考察
彼の主著『意思と表象としての世界』の補足的な役割を果たしている一節。「すべて、理解するということは、表象の作用である」を基本に、現象、表象、理解の関係を明らかにしていく。一般実用的にはあまり得るところはないかもしれないが、純粋理論としては面白い。次の章、汎神論について、も同様。これは六頁しかない短い章なので感想は省略する。


『読書について』ほど繰り返し読みたいかといわれればそれほどではないにしろ、やはり良書。漠然と世に問われる「知性」という言葉を的確に捉え、表現している点では他の追随は許すまい。内容や訳が堅めで若干読みづらいというのが唯一の難点だが、五百円玉一枚で手に入るものの中では、かなりレベルの高い品ではないだろうか。

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