2006年06月01日

●ショウペンハウエル『読書について』

全般
我が表現と哲学の師、ショウペンハウエル先生の『パレルガ・ウント・パラリーポメナ』に収められているもののひとつ。彼の主著『意思と表象としての世界』の付録と補遺にあたる。現在岩波で刊行されている三冊(読書について、知性について、自殺について)の中では恐らくもっともポピュラー且つ読みやすい。
私が長年モノを書くにあたって漠然と信条としていたことが、この人によって殆ど全て明確に文章化されていたことがまず第一に私が彼を師とする理由のひとつで、諸所に見られる鋭利で辛辣な箴言の数々もどこか主張の共通する部分が多い。逆に哲学面ではそれほど倣うところが大きいというわけではないが、思索の結果を筆で表現する巧みさに感銘を受けたことが多いのは確か。恐らく私は哲学者としてよりも、一流の、本物の「文章家」として彼を尊敬しているように思う。
特にこの『読書について』は繰り返し何度でも読むべき著作。重要箇所の引用となれば全文を引用するより他にないので、便宜上ここではアトランダムに選び出した箇所を引用する。必ずしも最重要箇所というわけではない。

思索
そもそも思索=考えるということが、何か物理的に目に見える結果を残さないということがこの行為を最も曖昧にしている要因である。読書を終えればそこには”この本は読んだ”という結果、あるいは一種のステータスが残るが、あることについてどれだけの時間思索を巡らしたかということは全く本人の思い込みに依存する。そのため思索は読書に劣るものと一般的に考えられがちである。しかしそれは全く間違っており、むしろ正反対で、実際は「読書は思索の代用品にすぎない」のである。「読書とは他人にものを考えてもらうこと」であり、それによって得られた着想・思想というものは、思索によって得られたものに比べて遥かに脆弱なのだ。

読書は精神に思想をおしつけるが、この思想はその瞬間における精神の方向や気分とは無縁、異質であり、読書と精神のこの関係は印形と印とおされる蝋のそれに似ているのである。読書にいそしむ精神が外から受ける圧迫ははなはだしい。衝動的なつながりはもちろん、気分的なつながりさえ感じない、いろいろなことを次々と考えていかなければならないのである。

そもそも自分で考えるということは、誰かから何かを教わるということとは根本的に動作が違う。前者は自分だけに根ざした活動であり、全ての帰結は自分の中、あるいは自分を通した外界の情報から取り出される。それは彼風に言えばそのときの自分の精神にもっとも合ったものであり、それだけに色あせることなく強烈に残り、整理され、応用がきき、生きた知識、思想となるのである。一方、人から得た知識はただ単に情報を押し付けられただけであり、それをやはりこちらで思索することがない限り、その知識は永遠に死んだままの知識である。どれだけ量を積んだところで、部屋に未整理のまま散乱した大量の蔵書に等しく、必要なときに何の役にも立たない。あるいは大抵の場合、風化して勝手にどこかへ消えてしまうのである。


著作と文体

文体は精神のもつ顔つきである。それは肉体に備わる顔つき以上に、間違いようのない確かなものである。他人の文体を模倣するのは、仮面をつけるに等しい。仮面はいかに美しくても、たちまちそのつまらなさにやりきれなくなる。生気が通じていないためである。だから醜悪この上ない顔でも、生きてさえいればその方がまだましということになる。……(中略)……こういう事情をひそかに察知しているため、凡庸な著者にかぎってだれでも、自分に特有な自然の文体に偽装を施そうとする。そのためまず第一に、素朴さ、素直さをすべて放棄しなければならないことになる。その結果、文章作成上のこの美徳は、常に、卓越した精神の持ち主、平生自分の値打ちを自覚して、自身に満ちている人間だけに許される。つまり凡庸な頭脳の持ち主たちには考えるとおりに書くという決心が、まったくつかないのである。それというのも、そういう調子で書けば、書きあがったものがまったくつまらないものになりかねない、という予感におびえるからである。

つまらないことをわずかしか考えていないのに、はるかに深遠なことをはるかに多量に思索したかのように見せようとして、不自然、難解な言いまわしや新造語を、だらだらとした文章、堂々めぐりを重ねたあげく、何を考えているのかを不明にする複雑な複合文章を使う。つまり彼らは自分たちの考えている同じ一つの思想を伝達しようとする努力と、隠蔽しようとする努力との間をさまよっているのである。彼らは思想に手入れを施して、博学深遠な体裁をとらせたがる。そのねらいは、今はごくわずかのことしかわからないが、実際ははるかに豊かな内容がその背後に隠れているに違いないという印象を人びとに与えることにある。そこで彼らは時には、その思想をちびちびと小出しに、思わせぶりに書いて行くという手を使う。その武器は短い箴言風な言辞や逆説的朦朧体の託宣である。そういう言葉は、一見、実際含んでいる以上の意味を暗示する効果をもつ。

かなり長く二箇所を引用したが、著作と引用の中ではこれだけ引用しておけば今の時代に大量に溢れるモノカキ予備軍をふるうには十分だろう。特に後者に至っては、ちょっとしたネット小説や短編などではもはや指摘も許されぬほど広まってしまった技法である。ショウペンハウエルはこれをシェリングの自然哲学などを引き合いにだして批判したが、もっと水準を落としてみればこのような日常的な文章表現でも、彼が憂いた以上に蔓延しているのである。逆に言えばそれだけその暗示効果が大きいということなのだろうが、それがわかってしまったときほど、これらの著作が陳腐に見えることはない。最初の数節で読むのをやめるものは八割方これにあたる。


読書について

書物を買いもとめるのは結構なことであろう。ただしついでにそれを読む時間も、買いもとめることができればである。しかし多くのばあい、我々は書物の購入と、その内容の獲得とを混同している。

いわゆる積読である。しかし確かにこれはその通りだが、だからといって書物を買うことがよろしくないというわけではない。書物を買ったときの喜びというのは確かに、その書物を読んでいるとき、場合によっては読み終わったときよりも大きいものだ。それだけに、その本に対する愛着も大きく、したがって内容に対する理解や記憶も優れるだろうというのが私の意見である。ショウペンハウエルがこれに対してどう答えるかはわからないが。

読み終えたことをいっさい忘れまいと思うのは、食べたものをいっさい、体内にとどめたいと願うようなものである。その当人が食べたものによって肉体的に生き、読んだものによって精神的に生き、今の自分となったことは事実である。しかし肉体は肉体にあうものを同化する。そのようにだれでも、自分の興味をひくもの、言い換えれば自分の思想体系、あるいは目的にあうものだけを、精神のうちにとどめる。

本を読んで内容を逐一覚えている人を羨ましいと思ったことがあるならば、この言葉で救われる。恐らく彼は不要なものも体内にとどめており、下手をすれば消化すらしていないのだ。だから往々にして彼らは読んだことを「そのまま」語るし、「そのまま」主張する。確かに見た目は博識かもしれないが、何か意味があるだろうか。

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