2006年06月01日

●ペンジュラム

思索のはじまりには、まっさらな拡がりがある。何ひとつ意味を持たない無音の世界だ。そこからは何も聞こえてはこない。意味を重ねなければならない。しかし重ねれば、重なりすぎて調和しない、ひとつの表象にならないノイズが生まれる。ノイズはすべて互いに溶け合い、侵食し、気まぐれに分裂するランダムノイズであるから、これを解析することはできない。そこでノイズを払うと、私たちは沈黙がまた無限に拡がるのを見る。

思索はいつも空白と混沌の間を揺れ彷徨っている。空白はトートロジーを抜け出し、加速して、やがてナンセンスを通って混沌に向かう。ならば最適解は中点――最も速い速度を持つ、一瞬で過ぎ去ってしまう振り子の最下点――であろう。しかし苦労して掴んだ中点が私たちを満足させることはない。そこにはただ月並みがあるだけである。

振り子の本質はただひとつ、揺れているという点のみにある。思索も同じなのかもしれない。最適と信じて選んだ解も、選べばたちまちそれが全く空虚に、解析不能に、月並みに思えて仕方なくなる。たとえ他にもっとよい解はないという確信があったとしても。だから、思索している間、揺れている間は満足して十分愉しんでいるのにも関わらず、決定する段に至って私たちはいつも妥協を強いられるのである。それは思索という行為の本質に依るのだ。解の選択が悪かったわけではない――但し、選ばないという解が許されたのなら、選択を誤った可能性は十分にある。止めなくてもよい思索を止めてしまったことに、反省の余地がある。

揺れていたほうがいい。揺れていることは不安定ではない。その証拠に、揺れている振り子よりも、丘の頂上で静止している球体のほうがはるかに不安定である。非平衡である。ほんの僅かな乱れが生じれば、球体が頂上に戻ってくることは二度とない。

振り子はどれほど乱れても、また違う振幅をもって揺れ始める。

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