2006年05月10日

●眠りと時間 - 2

眠りと時間、の記事を書いてからまだ間もないが、今読んでいるフォエイルバッハの論文に関連の深い一節を見かけたので、引用して付け足して置きたい。

われわれには自分の生涯というものが、過去においても、可能な未来においても、どんなにそれを引きのばしてみても、非常に短く思われる。そこでわれわれは、そんな想像をする瞬間には、われわれの表象に対して極めて短く思われる時間を、死後の限りなく、果てしない生命によって補わずにはいられない気持ちになる。しかし現実では、ただの一日も、ただの一時間も、どんなに長いことだろう! この違いはどこから来るのか。それは、表象の中での時間は空虚な時間であり、したがってわれわれの計算の始まりの点と終わりの点の間には何もないが、しかし現実の生涯は充実した時間であり、そこにはあらゆる種類の困難の山が今と別の地点との中間によこたわっていることから来るのである。

始まりの点と終わりの点の間には「何もなく」、現実の生涯は「充実した時間」であることは、つまり意識する主体と意識される対象がそこにあるかどうかの差異を述べているとも考えられる。「眠りと時間」では意識の作用のないところでは時間は長さや量として機能しないと書いたが、これを表象としての時間と比較して考えれば、フォイエルバッハの言う「空虚な時間」とはまさに意識の作用のない時間のことであろう。それに対して「充実した時間」とは、意識の作用によって持続として感じられるものであり、且つ、その持続には常に「今」という考えるべき、意識すべき対象があるということなのである。

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