2007年02月14日

●多読症候群

「よいものを書くためには、とにかくたくさんの本を読んでいなければならない」という強迫観念が蔓延している。小説を書くことに多少なり携わったことのある人で、この手の主張に突き当たったことのない人はいないだろう。私もこの数年だけで嫌というほど目にも耳にもした。
語彙の少ない人を見れば「もっと本を読もう」、表現の稚拙な人を見れば「もっと本を読もう」、ストーリーの貧弱な人を見れば「もっと本を読もう」、では結局のところ小説の上達法とは? ――もちろん「たくさん本を読むこと」。このような蓄音機の如き主張は本当に的を射ているのだろうか。多読は本当に有益な習慣なのか。少し考えてみたい。

多読を推奨する書籍やサイトに於いて必ず紹介されているのが「速読術」である。速読術とは、眼球の訓練によって通常より広い範囲の活字を一度に読み取り、認識力の訓練によってそれを瞬時に把握することで、読書の速度を大幅に向上させるというものである。飛ばし読みとは違い、全ての情報を脳にインプットしているのでロスはない。速読術は聞こえこそ眉唾だが、素早い情報収集には確かな効果を発揮するため、ビジネスマンや政治家にとっては特に有用なスキルであると言われている。
さて、ある大手のサイトによれば、一流の作家になるためにこの速読のスキルが「必須」であるという。それを真に受けたユーザーが速読で大量の本を読まねば作家にはなれないなどと嘆いている有様だ。小説を書くという行為がどんなことかを全く理解していないようなユーザーに「本を読め」という含みを込めて読書を薦めることは、確かにそう理に適っていないことではない。しかし速読を習得して人よりも大量の本を読み解かなければ作家にはなれないというのは、いささか極端に聞こえる。そもそも、速読によって大量の本を読むことは本当に必要欠くべからざることだろうか。

私は、本など本当の知識を得るためには何の役にも立たない、とは決して思わない。本から得る知識は貴重である。ときに経験に勝るとも劣らぬものがあることも認めてよいとさえ思う。
しかし慎重に考えれば、そのこととたくさん読むこと(ここでの「たくさん読む」とは短時間でたくさん読むことを指すことに注意されたい)とは何の関係もない。本を読むことで残る、それも長い時間色褪せずに残り、整理されて応用が利くような生きた知識として残る知識とは、それ相応に時間をかけて思索・吟味した知識のみだからである。流し込めば流し込んだだけ増えていくのは、書斎に散乱した未整理の蔵書のような、いざ必要なときに役に立たない、場合によってはあっという間に風化して消えてしまうような、死んだ知識だけである。
いわば大食いと健康の間に何ら比例関係がないのと同じことと言えるだろう。肝心なのはどれだけ口に放り込んだかではなくどれだけ消化したかであり、この消化能力は結局のところ人によって大差はない。知識を消化する、というイディオムがあるように、本当の意味で自分の糧となる生きた知識は消化によってしか得られないのである。
従って、このことが認められた瞬間、少なくともよい小説を書くためという動機に於いては速読というスキルがさほど重要でないことが明らかになる。加えて、多くの速読教室の広告のいう「読書の精度はまったく落ちない」が本当かどうかさえ定かではないのだから、速読術は、創作のツールとしては依然有用といえるかもしれないが、習得が必須である、などとはもはや言えないだろう。
かのブリュンティエールと評壇を二分したフランスの大家、エミール・ファゲでさえ、自身の読書術の唯一無二の極意として「ゆっくり読むこと」を掲げている。曰く「先ずゆっくり読まねばならぬ。次に極めてゆっくり読まねばならぬ」。百冊読んだ、二百冊読んだと自慢したいならともかく、書くための修行にスピードを誇る必要はない。

それではゆっくりと大量に読む、つまり一日のほとんどを読書に当てるような多読はどうだろうか。
私もごく最近から人並みには本を読むようになった。純粋な量でいえば、近頃は人並み以上に読んでいるといってもよいと思う。読書の効用も実感している。ページを繰るたびに、一冊を閉じるたびに、自分の中の精神や思想がより洗練され、語彙が増し、表現力が磨かれるのを確かに感じる。しかし同時に数冊を終えるごとに、得たいのしれない危険も感じるのである。
読書は油断すると習慣化する。流れ作業的に次の本、次の本と移っていくごとに、知らず知らずに一冊の濃度が小さくなっていく。加えて読書とは受動的な行為であるから、精神から徐々に能動的な性質を奪っていくのである。「一日の大半を読書に費やす勤勉な読書家は、次第に自分でものを考える力を失っていく」(ショウペンハウエル『読書について』)これこそまさしく、一見有益無害な多読という習慣に潜む危険であると私は思う。

読書は適量を見極めなければならない。私は気分の乗るときでも一日に高々二百ページ程度と定めている。もちろん、難しい本なら三十ページと進まないこともあるが、それはそれで時間をかけて「消化」している証拠であると、私は自分で納得している次第である。

※なお、このたびから傍点の代わりに太字を採用することにした。

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