2007年02月25日

●単語の選定について

ある場所に入れるべき単語について「複数の類義語を見比べたとき、どれをとってもたいした差異はないと感じられるならば、それは十中八九言葉や文章に対するあなた方の神経が遅鈍なのだ」と谷崎は言う。即ちひとつの場所に当てはまる最適な語はただひとつしかないのである。それ以外の選択は、よりよい、より悪いはあるかもしれないが、極端に言えば著者の技量不足によるれっきとした誤りだと言ってもよい。

それでは「最適」は如何にして見いだすべきか。

文章を読むことは視覚のみならず聴覚の働きも要求する。情報を取り込むのは目であるが、ウェルニッケ中枢がそれを脳内で追唱しているからだ。人は黙読しつつ音読しているのである。したがって書く側としては、場合によっては内容や意味そのもの以上に、文章の見た目と読みを重視しなければならない。即ち語調字形の美しさである。

これらのうち、後者の字形の美しさについては難なく理解されるところであろう。路端に咲く黄色い花を「タンポポ」と書くのと「蒲公英」と書くのではイメージに明らかな違いがある。「烟」と「煙」も然り、「微か」と「幽か」も然り。「住処」と「住み処」では後者の方が「すみか」という読みが閃きやすい反面、表現としては些か砕けた雰囲気を醸すだろう。複合語であれば区別はいっそう甚だしい。「めぐりあい」は果して何通りの表記が可能だろうか。同様の例はいくらでも挙がる。
一方で語調の美しさの評価がある。即ち、めぐりあいをどう表記するかという選択以前に、出会い、めぐりあい、邂逅、いずれを選ぶべきかということであり、死した人間を死体(したい)と書くか屍(しかばね)と書くか亡骸(なきがら)と書くかということであり、つまりは実際に文を発声してみたときの口当たりのよさを比べてみることである。

さて、ここにひとつの問題が生じる。語調としては「邂逅」が優れるが、漢字少なく砕けた雰囲気を以って筆を進めてきたのであれば「出会い」を選んだ方がよいということもある。逆に字形からは「静寂」と書きたいが、口当たりは「しずけさ」が好ましいということもある。単語の選択はこのように二律背反であり、片方を重視すれば、もう片方は自ずと疎かにならざるを得ない。いわば常に語調と字形のトレードオフに晒されているのである。
語調も字形も最高によいといえる一語があればそれが最適だが、大概そううまくは行かない。現実的にはこれは万人共通のジレンマであり、語調と字形のどちらを重視して単語を選ぶかは書く側の好みによることになるが、それはある程度仕方のないことのように思われる。そもそも二者択一と言い切れるところまで単語を絞ることができたのであれば、どちらを選んでも大差はない、妥当な表現であるといって差し支えないであろう。
とはいえ、前進の手だてが全くないわけではない。ここではより最適解に近づくための手段のひとつとして、トレードオフを一部解消する次のような技巧について考えてみたい。

日本語は慣用的に言えば、どの漢字にどのようなルビを振ってもある程度は許されてしまう言語である。もちろん勝手に新しい言葉を拵えて無理やり読ませたり、奇をてらったことをすれば大抵の場合は単に不自然極まりない表現となって終わるだけであろう。しかし一風変わった読ませ方をさせることで、流れとよく調和し、文全体がひときわ味のあるものとなることもしばしばある。ごく稀には全く前例のない漢字の読みを使っても、それがその場面その場所に最適な表現である、ということさえあるかもしれない。辞書に載っていて、普段なら必ずそう書かれるような、或いはそう読まれるようなフォーマルな漢字や読みが常に最適とは限らないのである。
とすれば先の二者択一に際しては「静寂」を「しずけさ」と読ませればよいのではないだろうか。これは決して不自然ではない。なぜなら選定の際に「静寂」という漢字は字形の美に優れており、「しずけさ」という読みは語調の美に優れていることがわかっているからである。静寂にしずけさという読みはないのだからそれはおかしい、と断乎として嫌悪を示すような若干の人々を除けば、そのときの著者の美の選定が誤っていない限り、これは読者にとって最も心地よく読める最良の表現であろう。

以上に述べてきたような選定と評価を、理屈でなく感覚で、書きながらにしてわかっているといった具合で行えるようになることが理想である。いわゆる「文才のある」と言われる人たちは、ほとんど無意識のうちにこれを行えるのだろう。しかし鍛錬で養い得ないものではない。よいと思う文章、よいと思う単語の選定を繰り返し熟読玩味して、徐々に感覚を磨いていけば、いずれ研ぎ澄まされた後天的な文才が手に入るかもしれない。

2007年02月14日

●多読症候群

「よいものを書くためには、とにかくたくさんの本を読んでいなければならない」という強迫観念が蔓延している。小説を書くことに多少なり携わったことのある人で、この手の主張に突き当たったことのない人はいないだろう。私もこの数年だけで嫌というほど目にも耳にもした。
語彙の少ない人を見れば「もっと本を読もう」、表現の稚拙な人を見れば「もっと本を読もう」、ストーリーの貧弱な人を見れば「もっと本を読もう」、では結局のところ小説の上達法とは? ――もちろん「たくさん本を読むこと」。このような蓄音機の如き主張は本当に的を射ているのだろうか。多読は本当に有益な習慣なのか。少し考えてみたい。

多読を推奨する書籍やサイトに於いて必ず紹介されているのが「速読術」である。速読術とは、眼球の訓練によって通常より広い範囲の活字を一度に読み取り、認識力の訓練によってそれを瞬時に把握することで、読書の速度を大幅に向上させるというものである。飛ばし読みとは違い、全ての情報を脳にインプットしているのでロスはない。速読術は聞こえこそ眉唾だが、素早い情報収集には確かな効果を発揮するため、ビジネスマンや政治家にとっては特に有用なスキルであると言われている。
さて、ある大手のサイトによれば、一流の作家になるためにこの速読のスキルが「必須」であるという。それを真に受けたユーザーが速読で大量の本を読まねば作家にはなれないなどと嘆いている有様だ。小説を書くという行為がどんなことかを全く理解していないようなユーザーに「本を読め」という含みを込めて読書を薦めることは、確かにそう理に適っていないことではない。しかし速読を習得して人よりも大量の本を読み解かなければ作家にはなれないというのは、いささか極端に聞こえる。そもそも、速読によって大量の本を読むことは本当に必要欠くべからざることだろうか。

私は、本など本当の知識を得るためには何の役にも立たない、とは決して思わない。本から得る知識は貴重である。ときに経験に勝るとも劣らぬものがあることも認めてよいとさえ思う。
しかし慎重に考えれば、そのこととたくさん読むこと(ここでの「たくさん読む」とは短時間でたくさん読むことを指すことに注意されたい)とは何の関係もない。本を読むことで残る、それも長い時間色褪せずに残り、整理されて応用が利くような生きた知識として残る知識とは、それ相応に時間をかけて思索・吟味した知識のみだからである。流し込めば流し込んだだけ増えていくのは、書斎に散乱した未整理の蔵書のような、いざ必要なときに役に立たない、場合によってはあっという間に風化して消えてしまうような、死んだ知識だけである。
いわば大食いと健康の間に何ら比例関係がないのと同じことと言えるだろう。肝心なのはどれだけ口に放り込んだかではなくどれだけ消化したかであり、この消化能力は結局のところ人によって大差はない。知識を消化する、というイディオムがあるように、本当の意味で自分の糧となる生きた知識は消化によってしか得られないのである。
従って、このことが認められた瞬間、少なくともよい小説を書くためという動機に於いては速読というスキルがさほど重要でないことが明らかになる。加えて、多くの速読教室の広告のいう「読書の精度はまったく落ちない」が本当かどうかさえ定かではないのだから、速読術は、創作のツールとしては依然有用といえるかもしれないが、習得が必須である、などとはもはや言えないだろう。
かのブリュンティエールと評壇を二分したフランスの大家、エミール・ファゲでさえ、自身の読書術の唯一無二の極意として「ゆっくり読むこと」を掲げている。曰く「先ずゆっくり読まねばならぬ。次に極めてゆっくり読まねばならぬ」。百冊読んだ、二百冊読んだと自慢したいならともかく、書くための修行にスピードを誇る必要はない。

それではゆっくりと大量に読む、つまり一日のほとんどを読書に当てるような多読はどうだろうか。
私もごく最近から人並みには本を読むようになった。純粋な量でいえば、近頃は人並み以上に読んでいるといってもよいと思う。読書の効用も実感している。ページを繰るたびに、一冊を閉じるたびに、自分の中の精神や思想がより洗練され、語彙が増し、表現力が磨かれるのを確かに感じる。しかし同時に数冊を終えるごとに、得たいのしれない危険も感じるのである。
読書は油断すると習慣化する。流れ作業的に次の本、次の本と移っていくごとに、知らず知らずに一冊の濃度が小さくなっていく。加えて読書とは受動的な行為であるから、精神から徐々に能動的な性質を奪っていくのである。「一日の大半を読書に費やす勤勉な読書家は、次第に自分でものを考える力を失っていく」(ショウペンハウエル『読書について』)これこそまさしく、一見有益無害な多読という習慣に潜む危険であると私は思う。

読書は適量を見極めなければならない。私は気分の乗るときでも一日に高々二百ページ程度と定めている。もちろん、難しい本なら三十ページと進まないこともあるが、それはそれで時間をかけて「消化」している証拠であると、私は自分で納得している次第である。

※なお、このたびから傍点の代わりに太字を採用することにした。

2007年02月13日

●小説作法について

汎用性のある話題(のような気がする)ので、せっかくだからここにも記そうと思うも手頃なカテゴリーが見つからなかった。故に、ここ「クリエイションノート」の記念すべき(?)一頁を開放することになったというわけである。

LunaScape(ブラウザ)のお気に入りバーに「ライブラリ」というフォルダを作っている。その中にさらに「資料」というサブフォルダがあるのだが、これは様々なオンライン辞典やテーマ別研究、考察まとめサイトなどを格納したものだ。小説作法の研究や文章系の技術解説のサイトも、巡回先でなければこのフォルダにリストされている。今日はたまたま、これらの文章作法を扱うサイトを一巡していた。

端的に言って「小説作法」にはまどろっこしいものがおおい。大手サイトになればなるほど、その項目数は目眩くものがある。「キャラクターの作り方」「世界観の設定」「主人公を書くには」「悪役の種類について」「プロットの作り方」「タイトルの付け方」「リアリティの大切さ」「ユーモアのコツ」「おもしろいギャグの作り方」「効果的なネタ出しの方法」……。挙げていけばキリがない。さて、果たしてこれらはすべて熟読吟味に値するものだろうか。

サイトもさることながら、立ち読みも含めれば相当数の「小説作法」系の本を読んだと自負する立場としては、このあたりでこの問いに否と結論付けたい。唯一熟読する意味があるとすれば、この否という結論に達するために、というより他にないだろうと思う。
そう言うからには当然何故かを説明する義務があるが、いまはその理由を述べるより、代わりに価値のあると思われる限定された行為を列挙して、各々に現時点での考察を付しておくだけにとどめたい。

・師を見つけ定めること
何事に於いても、師がいなければ上達はなかなか望めない。しかしこのことは、小説作法に於いては随分と軽視されている気がする。実際、上に挙げたような夥しい「作法」の数々など、この定めし師匠に全て習えば済むことではないだろうか。
キャラクター、文体、構成、作風。とにもかくにも、愚直に師を真似ればよい。個性が不在だという指摘には当たらないだろう。そもそも個性とは誰かを真似て真似て真似し尽くして、それでもそこにどうしても真似しきれぬ部分が生じたときにはじめて明らかになるものだからである。(むしろ経験上、こういう必死な「真似」をしたことのない人がオリジナリティーなどというときには、決まってそこにはオリジナリティーなど欠片もないものである。)
歴史を紐解いて見ても、古代から現代に至るまで、実に多くの作家がその修行時代において最もためになった修練は「好きな作家の小説を写すこと」であると言っているのは、満更根拠のないことではない。

・語るべき物語を有していること
これは小説というものを書く以上、前提以前の大前提なのではないか、と私には思われる。ストーリーの「創作法」という言葉ほど奇妙に聞こえるものはない。語るべき物語を有しているからこそ語りたいのであって、それを持たない者が何を語ろうというのか。「創作法」とやらに乗っ取って、即席で虚無から捻り出してきた何かを書く。これはどう考えても創作の本質ではない。
書きたいと思ってるものがないのに書こうとするのが間違っている、と一言で切り捨ててもよいところであるとは、納得していただけることと思う。

・哲学を持つこと
いかに先鋭的なデザインを凝らし、様々な機能を備え、耐震性に優れた家といえども、四方の柱がてんでんばらばらな素材で出来ている家はどこか不自然に感じる。例えそれが見た目に実質的な違いを与えなくとも、である。ましてそれが明らかになったときには、恐らくもう私たちはそれを自然な家として見ることさえできない。
観賞物としての庭も同様である。区分けの意図が全く成されていない、生い茂るに任せたままの庭は塀と家の隙間にある「草地」に過ぎないだろう。そこに無作為に選ばれた幾種かの種が、全くアトランダムに撒かれたら? 想像するに、不気味な庭ではないだろうか。
設計者の哲学の不在は、かくも被造物にちぐはぐな印象を添える。故に、「神は精神の場である」といったような神学的な理念から、「真の友達は幼い頃を共にしていなければ有り得ない」というような日常的な信念、「難しい漢字は極力避けて、平凡な言い回しをする」というスタイルに関わる決意でも、「幽霊に足はないが手はある」でも、「動物を虐めると祟りがある」でも、何でもいい、何らかのひとつの、小説そのものの中核を為す哲学があらかじめ著者に必要なのである。
これは純然たる持論であるだけに、単なる哲学愛好趣味として受け入れられないことも多いが、私としては(持論である以上当たり前だが)これも小説作法の本質をかなりの部分為していると考えたい。

以上、記念すべき第一頁であるが、一気呵成に書き終えて見れば随分堅い調子になってしまった。人に読んでもらう記事であるのだから、どう考えてももう少し読みやすい、柔らかい調子で書かなければならない。かといって口語体を使うのも、まとめの記事としては気が引けるというわけで、このあたりの按配は非常に苦心する。そのうち改善されることを楽観的に祈る。

この記事は創作修行の「軌跡」であるから、確実に真なることのみを綴ったものでも、熟考を重ねた小論文の類でもない。推敲もろくにしていないメモの如きものである。
加筆訂正が入る余地は大いにある。