2006年11月04日

●プラトン『国家』

岩波文庫・青/949p

プラトン著作中最大の分量を占める最高峰。
「正義」とは何かの検討にはじまり、個人の正義を定義するためにはまず国家の正義を見なければならぬ、では国家の正義とは……と徐々に話は理想国家のあり方へと移ってゆく。では理想国家のあり方とはいかなるものか。それこそがプラトンの最も有名なテーゼのひとつである哲人統治*1である。
哲人統治の必要性とそのあり方を語る第五巻から第七巻までが、恐らく国家篇で展開されるストーリーの上でも、これに関連するプラトンの思想の上でもクライマックスに相当する部分であろうと思うが、今でこそ難なく受け入れることのできるこのテーゼも、実は当時においてはあまりに突拍子で危険な提案であった。それがどれだけとんでもない提案であったかは、そのときの話し相手グラウコンの次のような反応からも十分にうかがえる。

ソクラテス*2、何という言葉、何という説を、あなたは公表されたのでしょう! そんなことを口にされたからには、御覚悟くださいよ、いまやたちまち、あなたに向かって非常にたくさんの、しかもけっしてばかにならぬ連中が、いわば上着をかなぐり捨てて裸になり、手あたりしだいの武器をつかんで、ひどい目にあわせてやるぞとばかり、血相かえて押し寄せてきますからね。その連中を言論によって防いで、攻撃を逃れるのでなければ、あなたはほんとうになぶりものにされて、思い知らされることになりますよ

それというのも、当時の哲学者の評価といえば「いらぬ議論にうつつを抜かす男」「その中でもっとも優秀な者たちですら役立たず」といった程度のものでしかなく、その哲学を国家の統治者が修めるなどということは、彼の品位を貶める一種の冒涜とも取られかねないほどのことであったからである。世はまさしく哲学無用論に支配されていた。様々なものの本質を探るため、意味を見つけるために思索にふけるということは、他にすることのない暇人たちの無用なお遊びに過ぎないと考えられていたのである。(ところでこれは現代の風潮にもある程度当てはまるように私は思う。)

それから水夫たちだが、これは、ひとりひとりがみな、われこそはこの船の舵を取るべきだと思いこんでいて、舵取りの座をめぐってお互いに相争っている。そのくせ彼らは、舵取りの技術をかつて学んだこともなく、自分にそれを教えた先生を指し示すことも、いつ学んだかを言うこともできないのだ。それどころか、舵取りの技術というものは、そもそも教授不可能のものだと主張し、それが教えられうるものだと言う者があろうものなら、その人を八つ裂きにしかねまじき勢いである。

そしてここからソクラテスは、理想国家を作るための哲人統治の必要性とそれが実現されるためには何が為されるべきかを、ゆっくりと噛んで含めて、反対者たちに威圧的になるよりはむしろ諭すように話しはじめるのである。その中にはプラトンの名において恐らく最も有名であろうイデア論が太陽の比喩、線分の比喩、洞窟の比喩を用いて為されているのも見ることができる。また、やがて対話が語るべきことを全て語り終えた後には、これもまたプラトンの重要な思想のひとつである魂の不死について、それを証明するエルの物語が語られて国家篇は静かに幕を閉じる。

プラトンの研究者には怒られてしまうかもしれないが、このように盛りだくさんな分、この一篇を読めば大体プラトンの主要な思想の概要は掴めるのではないかと思う。対話篇だけに、岩波の青にしてはかなり軽いので、気が向けば是非。

*1哲人統治
哲学を修めたものが国家を治めるか、国家を治めるものが哲学を修めるか、そのいずれかが実現されない限り理想の国家はありえないとする思想。

*2ソクラテス
プラトンの対話篇は、ソクラテスが主人公として様々な人と対話をするという設定で書かれている。

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