2006年08月13日

●フーケー『水妖記』

岩波文庫・赤/165p

そこに住んでいる生物は、見るからに優しく愛らしく、人間でもそんなに美しいのは珍しいくらいです。嫋やかな水の女が波から現われて唄を歌っているのを、うまい具合にぬすみ聴きしたという漁師も少なくはありません。その人たちは水の女の美しさをそれからそれへと語りひろめましたが、人間はそのような不思議な女たちをウンディーネと呼んでいます。そのウンディーネの一人を、あなたは今、目の前に見ていらっしゃるのです。

この物語が書かれた時代は既に近代であったから、これはお話としてはメールヒェンに属する、ということになる。感嘆するか一笑に付すかは人次第、科学思考に染まった現代人だからといって必ずしも受け入れられないものではない。私もどちらかといえば、SFやミステリーによりはメールヒェン物語の方を好むし、同じ趣向の人は少なくはないと思う。もちろんその好みに何か箇条書きにできる理由があるわけではない。しかし今回この「水妖記」を読んでふと、メールヒェン物語には何か、SFやミステリーにはない深いリアリティがあるように感じられるのではないかと思うようになった。表面的な、論理的なリアリティを超えたリアリティ。もしかすると、これがメールヒェン物語を魅力的にしているひとつの要素かもしれない。
遙か昔、まだ科学の科の字も見えない時代には、水が命を持っている――時々それは人々の目をぬすんで水上に現れ、美しい歌声を奏でる――あるいは、水に限らずあらゆる自然界のものが命を持っているという考えは、気取ったロマンスなどでは決してなかった。”現実派”から揶揄されるような夢想家だけが、自然界に遊ぶ様々な精霊・妖精の類を思い描いていたわけではなかった。人々は、私たちが実際には自分の目で確かめたことのない化学反応を真実だと信じているのと同じくらい、自然の生命、精霊・妖精の存在を信じていたに違いない。そこから数多の物語が生み出され、それが伝承によって語り継がれてきたとすれば、時の洗練さえ超えてきた現代に残るメールヒェン物語の数々が深いリアリティを持っていると感じられても不思議なことではないのではないか。――もっとも、物語論や心理学ではこういったことはもっと上手に詳細に解説されているのであろうけれど。

さて、解説じみた考察はこれくらいにして、あとは少々個人的な感想を述べたい。「水妖記」の主人公ウンディーネはいわば水の精であるが、精霊というのは、物語に登場する上では姿形は人間の思いのままになるわけで、「このうえなく美しい」のは予想される必然である。しかし、そうとわかっていても――フーケーの描くウンディーネは実に愛らしい。容姿はもちろん、言動や仕草がひとつひとつ幻想的で可憐で、魅力に満ちている。それでいて悲劇的な結末――雑に言えば、可愛すぎるし、可哀想すぎる。あまり使いたくはない用語だけれど、萌えってこういうことだろうか?
というわけで最後にひとこと。何が不満だ、フルトブラントの大馬鹿者!

13504p/42195p

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