2006年03月11日

●保坂和志『小説の自由』

新潮社/352p

全13回の連載を通して、「小説とは?」をひたすら考え抜く一冊。
他の小説考エッセイと比べると、「小説とは何か?」という問いではなく、あくまで「小説とは?」という問いに答えようとしているところが面白い。何か、と解明を試みるのではなく、思考だけで一気に小説の意義、あり方、理想系を求めようとしている。
問題があるとすればやや哲学的、受け止め方によっては衒学的な引用やら解説が多すぎる気もしないでもない。アウグスティヌスやシェリングを持ち出したい気持ちもわからないではないが、13章の『告白』ラッシュはこの本の最後に本当に必要だっただろうか、とも思う。私は楽しく読ませていただいたからいいけれども。

本文中で激しく同意したのは主に以下の二箇所。

私のかけがえのなさの起源は、ペットのかけがえのなさと同じである。

まさしく。
「スモモもモモも桃のうちなんてあたりまえよねぇ」とゆかり先生が話したときの大阪なみに頷ける一文。ただ、私の場合は「私」に過剰な関心があるわけでもなく、かといって(実際にはペットは飼っていないので)猫なしでいられないような人間でもない。ただ単純に自分のかけがえのなさがその程度の根拠しか持っていないことを納得しているのだと思う。付き合ってきた時間が長すぎる。それ以外にたいした理由がみつからない。

事実/虚構、本当/嘘、という単純な二分法をこえたところで、事実であったとしても虚構であったとしても「記憶するに値する」「忘れることができない」「信じざるをえない」というのが、歴史書、旅行記、伝記などと小説を分けるフィクションのことだ。

私の手元に、物語世界の完全性と、物語の非純粋性について考えたメモがあるが(いずれ記事になるだろう)、便乗するなら綺麗な言葉でまとめるとこのようになるのかもしれない。保坂さんはあくまで小説・フィクションのことを言っているのであって物語にまで言及はしていないのだから若干異なるかもしれないが、メモによれば「信じざるをえない」と考えている間だけ物語世界は存在していられるのだから、大きく外れてはいまい。

この本を貸してくれたひまじんに感謝。

1587p/42195p

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