2006年05月04日

●ベルクソン論文集

ひまじんの大量投下を機に、最近ぼちぼち読んでいた何本かのベルクソンの論文を加算しておきます。
引用するとキリがなくなるので、数も多いし、時間もないことだし、たまには引用せずに簡潔に評をつける練習でもしてみることにします。

『笑い』
人は何故笑うのか。笑いというものは嘲笑に限らず、すべて社会から、或いは日常生活の実用性から逸脱したものに浴びせられる警告である――極端に言えばこのような主張。形、運動、状況、言葉、性格など様々なものがどうして時に「おかしみ」を呈するのか、笑いは心理学的な意味の他に、社会的にはどのような意味を持っているのかを、古典喜劇を素材として分析していく。
とはいっても特に古典喜劇に通じている必要はなく、予備知識がなくてもベルクソンの優れた比喩や言い回しのおかげですんなりと理解できる。長さも短い(200p弱)し、訳も読みやすい。軽め。

『時間と自由』
名著。時間が空間として語られることが現代の哲学最大の誤謬であると指摘する。機械論的決定論の世界に踏み込むことも、またそれを同レベルの時間認知から反駁しようと試みることも同じ上の誤謬を犯しているに過ぎず、この手の問題は時間というものの正しい認識によってたちどころに解決してしまうことを示して見せた。このリストの中では最も読む価値があると思う一編。

『緒論』
ベルクソン自身が、自分が自分の哲学を見つけてから歩んできた道のりを振り返って、改めて自分の哲学がどのような態度に支えられて展開されてきたのかを語る思想的自伝。岩波文庫『思想と動くもの』の最初に、二部に分けて収められている。
これを読む限り、やはりベルクソンという人は若い頃から相当頑固だったようだ。もっとも、それでなければあの時代にいきなりカント批判を打ち立てるようなことは出来なかっただろうけれど。

『可能性と事象性』
「可能的なもの」と「現実的なもの(事象的なもの)」の関係を論じ、それによって、哲学全体の未解決な問題のほとんどは実は問題の提出のされ方が間違っているにすぎないことを示す。
従来のプラトン主義的な考え方では、物事は「現実的なもの」である前に「可能的なもの」として存在していて、それが実在を獲得することで現実的なものになる。しかしこれは誤りであるという。可能性、可能的なものとは、既に実現したことを過去に投げ返したものに過ぎないのであって、ここにもやはり『時間と自由』で述べたような時間と空間の取り違えが生じているのだ、と。つまり、時間を空間のように可逆的なものと見なしてしまうがために、本来不可逆な時間を遡って可能性と事象性の関係を見誤ってしまうのだ。
……そうかもしれない。しかし、これについては少々納得できない箇所もある。ベルクソンにしては珍しく説明を書いているのではないだろうか、とも思う。可能性が事象性と同時に現れるものであるとしたら、可能性とは何か……?

『哲学的直観』
哲学者の任務、科学者の任務。各々が何に対し、何をすべきかを考えたときそこに優劣は存在せず、したがって明確にその「方法」を区別しなければならない。では哲学者の方法とは何か。「直観」に他ならない。
直感と混同すると厄介なので、とりあえず知らない場合は先に「直観」を辞書で引いておくことをお勧め。

計736p
10384p/42195p

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